仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

悟れなかったアーナンダ尊者

ブッダの死後マハー・カッサパを発起人とし、さらにアーナンダを主要な証言者として開かれた第一結集において、気づきとしてのサティではなく記憶としてのサティに秀でたアーナンダが重要な役割を果たしてしまったという史実の中に、初期仏教の草創期、つまり原点における問題点があった、と前回指摘した。

このアーナンダという、仏教徒であれば誰もが知っているブッダの愛弟子だが、実はパーリ経典をはじめ紀元前後までにまとめられた初期教典の中では、ある種特異な描かれ方をしている人物なのだった。

たとえば、確か説一切有部伝承の物語にある、村娘プラクリティに恋慕されて惑乱し逃げ惑う話。

王宮の女性たちに説法する為に向かったが、断りもなく寝所に入って王女を驚かせてしまい、ブッダに叱られる話。

マハ・パリニッバーナ・スッタの中でブッダの死の直前に、アーナンダが「婦人に対してどう接すればいいでしょうか?」という何とも場違いな質問をして、「見るな。話しかけるな。つつしんでおれ」などとブッダにお説教される話。

同じく、ブッダの死の前後に激しく動揺し、心の未熟さを露呈してしまう話。

確かサンユッタ・ニカーヤで、アーナンダの指導下にあった新参比丘が一度に大量に還俗してしまってマハー・カッサパに叱られてしまい、それに対してアーナンダに肩入れした比丘尼の一人がカッサパに猛抗議して、逆にやり込められる話。

ある比丘尼がマハー・カッサパなどよりイケ面のアーナンダを説法師として好んだ話。

在家信者の家に長っ尻に居座って社交に耽り、注意された話。

などなど、出家修行者としての未熟さや不出来さにことさらにハイライトを当てるような記述が多く見られる。

f:id:Parashraama:20200120144018j:plain

佛光山サイトより:プラクリティ(マータンガ)に惚れられたアーナンダ

前回私はアーナンダについて、25年間もブッダに近侍して常にそばにいてその薫陶を受けていたはずの彼が、ブッダの存命中には悟りを得られなかったという『事実』をもって彼を『とんでもなく瞑想センスの低い人』と表現したが、それは「修道センス」と言った方がより広範な意味で適切かも知れない。

まず率直に言って、私などのイメージでは、ブッダ釈尊本人を目の当たりに、その息遣いを感じその体温を感じられるほどの距離に接し、その法話を聞き続けるという、現代仏教徒からすれば想像を絶した『恵まれた境遇』に置かれながら、そのブッダの教説の核心であるところの悟りに至る事ができなかった、という事実が、ある種のジェラシーをも伴ってか、全く信じられない気がするのだ。

考えても見て欲しい。目のまえに生きて臨在するブッダその人の側近侍従を、25年も勤めたというのに!

私などが想像するに、生きて在るブッダその人にもし直接相まみえる事があったならば、その瞳と眼を合わせた瞬間に、ただそれだけで悟りの磁力に引き込まれるようにして共鳴し、自らも何もしなくても悟ってしまいそうな気がするのだが、どうなんだろう、こういうのって、やっぱり行き過ぎた幻想なのだろうか。

しかし、アーナンダがブッダ在世中にはついに悟りを開けなかった、という事実の背後には、彼が「劣っていた」というよりも、ある種不可抗力的などうしようもない理由があったとも考えられる。

その理由とは、もちろんブッダその人との『関係性』だ。

テーラワーダ仏教の中で出家比丘の修行道、中でも瞑想実践の方法について語っている定型文があって、これは多くのパーリ経典に共有されている。

ラーフラよ、ここに比丘は林に行き、または樹の下に行き、または人気のない場所に行き、身体を真っ直ぐに伸ばし、精神を面前に集中して(顔の周りに気づきを留めて ※筆者注)、跏趺を組んで坐る」

春秋社刊 原始仏典 第5巻 中部経典2 入出息念の修行法:大ラーフラ経誡経 P298より

世俗的な様々な『関係性』から厭離(遠離)して『ひとり』になる。これこそが、瞑想行において常に求められる必須前提条件として、ブッダによって徹頭徹尾強調されたポイントだったのだ。

サイの角のようにただ一人歩め。 ~スッタニパータ

私がタイのチェンマイにある瞑想寺で一カ月のリトリートをした時に、指導者であるビルマ人のアチャン(先生)と交わした会話の中で、特に印象に残っている言葉が二つある。その一つが、

Born of seclusion, jhana arise.

ボーン オブ セクルージョン、ジャーナ アライズ

完全なる遠離の中から、ジャーナは立ち現れる。

という言葉なのだが、このSeclusionとは、ひとつには物質的・感覚的な欲望五官の欲)の対象からの遠離であり、ひとつには社会・人間関係における『関係性』欲望・執着からの遠離であり、このふたつの意味において、完全に世界(loka)から “孤絶” して「ひとり」に成りきる、という事だと私は理解している。

そして本来、出家という言葉とそれが表すところの真の意味とは、正にこの “孤絶” して「ひとり」に成りきる、という点にこそあった。

つまり、このSeclusion(完全なる遠離・厭離)がまっとうされて初めて出家の真義が体現され、それが故に、瞑想行は一気に深まっていくのだ。

逆に言うと、このSeclusionが体現されていなければ、『出家』の本義が体現されておらず、それ故に、瞑想行が深まる事は原理的に難しい。そして正に、この『難しい』状況下に、25年間アーナンダは置かれていた事になる。

私は合気道奥の院と言われる茨城県の小さな町で、合気道師範の私宅に隣接した道場に住み込んで内弟子修行をした事がある。

その時の経験から分かるのだが、誰か、自分より上に見上げる尊い存在に誠心誠意仕える場合、常に五官・六官を総動員して、師匠の気配や立ち居振る舞い、その言動に意識を研ぎ澄ませ集中しているものだ。

正にブッダの侍従としてのアーナンダは、その状態にあった。彼はいち出家瞑想行者である以上に、ブッダの日常身の回りの世話をする書生であり執事であり、様々な人々をブッダにつなぐマネージャーであり、彼の言葉を記録(記憶)する秘書だったのだ。

常にブッダを眼で探し捉え、その動きに注視し、その声に耳を澄まし、その心に心を合わせて、その意を十全に汲んで、彼の意志が円滑に満たされるように常に心を配る。

これは、そのような実務に忠実であればある程、そして有能であろうとすればするほど、師との関係性の中で、五官・六官の働きに執着してしまう事を意味している。

もちろん、ブッダの侍従とは言え、睡眠時間を除いた一日の20時間ほどの間、四六時中ブッダに張り付いていた訳ではなかっただろう。

元来、ブッダの修行生活というものは「独り」になりきることを推奨するものであり、ブッダ本人もまた、独りで行ずることを好んだ。

当然、アーナンダがブッダのそばで様々な雑用に携わるのは本当にそれが必要であった時だけであり、それ以外の時間は「自分の修行をしなさい」といって、自由にさせていたはずなのだ。

しかし、本来であればブッダの侍従である立場を忘れて自分の修行に専念すべき時になっても、彼にはその気持ちの切り替えが容易にはできなかった。

おそらくアーナンダは、自らの瞑想行中にも、常に意識的にか無意識的にか、ブッダの存在を全身で「サーチ」していた事だろう。

そしてもちろん、アーナンダはゴータマ・ブッダを深く愛してしまっていた。同じ釈迦族の近親者な事もあり、年の離れた従として偉大なる師に対して、彼はその豊かな情緒性によって深くブッダと結ばれてしまっていた。

それはある意味、結果的に比丘サンガという出家の生活の中に父子(家族)関係という『在家』の緊縛(すなわち渇愛を持ち込んでしまう事を意味していた。

それ故にこそ、彼はSeclusion(厭離・遠離)を見失ってしまった。25年(!)もの長きにわたって。彼が侍従として有能であればあるほど、そのブッダへの思慕と敬愛の念が深ければ深いほど、彼の心はその関係性に呪縛され、Seclusionからは遠ざかってしまったのだ。

これが、ブッダが在世中アーナンダはついに悟りを開けなかった、という事実の背後にあった、真実ではなかったかと私は思う。

おそらくは、アーナンダという人は、世間的な価値基準に照らせば、素晴らしく「いい男」であったのだろう。

育ちの良いイケメンで女性にもてて人情に厚く信義を重んじ、誰よりも深い情愛とともにゴータマ・ブッダに忠実に仕えて、25年間もの時を重ねていった。それはブッダの侍従というファンクションとしては、極めて優秀な資質だった。

しかし、侍従という世俗的なファンクションとは真逆のところに成立するのが、ブッダの修行道というファンクションであり、その作用機序でもあったのだ。

おそらく彼は、ブッダの死によって、ブッダという偉大な師を失う事によって初めて、言葉の真の意味でSeclusionというものを体現する事が可能になった。

そして、第一結集の直前に忽然と悟りを開いた。それはある意味、極めてまっとうな自然な流れだったと、言えるのかも知れない。

前回の記述では、ある種言葉の勢いというものでアーナンダ尊者をこき下ろす形になってしまったので、今回はこういう見方もできるという事で、セルフ・フォローとしておきたい。

確かサンユッタ・ニカーヤの中にはこういう記述も見受けられる。

ある日、サーリプッタとアーナンダが「無常」について語り合っていた時、アーナンダがサーリプッタに向かって

「それでは貴殿は、ブッダが亡くなられたらどう思われる?」

と問いかけるのだ。このような問いを発すること自体、何より彼がそれを恐れていた事の顕われだが、それに対してサーリプッタは、

「もとより私はブッダの弟子であり、その教説を信受する修行者なのだから、ブッダにはできる限り長生きして欲しい。しかしブッダといえども、その五蘊としての存在の宿命として、無常であり壊れるものであるのだから、私はその事に執着することはない」

と明晰に断言する。

経典のニュアンスを汲みとれば、アーナンダはこのサーリプッタの淡々とした言葉に、絶句してしまったようにも見える。

確かに世俗的な基準に従えば、アーナンダは誰からも好かれる人間味に溢れた「いい奴」だったのだろう。しかし、ブッダの修行道とは、魚川さんが言うように、正にその情緒的な『人間味』を捨てた非人間的な側面を多分に持っていた。

彼アーナンダは、その『非人間的な道』に徹する事が出来なかった。何よりもブッダその人への思いの強さの故に。

反対にサーリプッタは、見事なまでに人間的な『情念(渇愛)』から遠離する事が出来ていたし、それ故に速やかに悟りを開く事が出来た。同じ「愛弟子」でも、両者は極めて対照的な存在だったと言えるだろう。

ただ、ここで気をつけなければならない事があって、この「非人間的な道」とは、『非人間になる』、という事を意味するのではない、はずなのだ。

(言葉のニュアンスの問題だが、目の前に臨在するブッダが他者から見た時に冷たい「非人間的」なものだったら、人々が魅了されてフォローするはずもない)

それは、人間的な、余りにも人間的な生類であるが故の三毒の呪縛を断ち切り、そこからの解放を目指すがために、おそらくある種 “プロセス起動の必要条件” として、まずは人間的な諸々の属性や様態を捨てる、という事なのだろう。

アーナンダにはその道理が見えなかった。たとえ見えたとしても、それを実践し体現する事はできなかった。それが仏教的に見れば、彼の甘さであり弱さであり、愚かさだった、のだ。

経典によると、ブッダが50代半ばを過ぎて身体の衰えを感じ身の回りの世話をする侍者が欲しくなった時に、アーナンダがその任に就いたのはブッダ本人の御指名であった、という事らしい。

この場合、ブッダが自分のいとこであるアーナンダを、「エコひいき」して指名した、と考えるべきではないだろう。

ブッダは、誰よりも自分の侍従という役回りが持つプレッシャーとその『呪縛性』について承知していた。

恐らくは、ブッダの侍従という出家修行者にとっては『割に合わない』仕事は、身内以外には申し訳なくて割り当てることができなかったのではないだろうか。

言ってみれば、合気道をマスターしたくて師範の元に弟子入りしたはいいけれど、実践稽古にはほとんど参加できずいつもビデオ撮影やらマネージャーの仕事やらに忙殺されている、というのが、いわばアーナンダの心理的な立場だったのだから。

そう考えれば、アーナンダがブッダの在世中は悟りを開けなかった、というのは、ブッダにとっては『織り込み済み』だったのかも知れない。

おそらく、アーナンダ自身にそもそも強い『求道心』など乏しく、ただただブッダの側にいられるだけで幸せを感じていて、彼のそんな「瞑想適性の低さ」と「信愛性(バクティ)の高さ」は、当初からブッダによって見抜かれていた。

そう考えれば、ブッダがアーナンダの「適性」を見抜いて、「適所」に配置したと見る事もできるだろう。

そのブッダに誤算があったとしたら、彼がその後継者にと見込んでいたサーリプッタが、自身よりも先に亡くなってしまった事かも知れない。

その時のブッダの悲嘆ぶりは、様々に伝えられている。それは単に誤算と言うには余りにも大きな、身を切られるような損失だった。

その結果として、ブッダの死後、サンガを導いていく代表者の一人として、記憶の人アーナンダが台頭した。正にブッダが、彼を侍従に選任したが故の結果として。

恐らく、マハー・カッサパなど修道に長けた年長の比丘たちが相次いで亡くなっていく時代を迎えた時、アーナンダの重鎮としての存在感は、いや増していった事が推測される。

そして彼の信愛(バクティ深いキャラクターと「記憶」を中心としたそのファンクションが、ひとつの理想的なロール・モデルとなった。

歴史にイフはない、とはよく言われるが、もし仮にサーリプッタモッガラーナが長生きをして、ブッダの死後、初期サンガのシステムが確立される過程に深く深く関与していたならば、その大いなる気づきと智慧の力が実践的なロール・モデルとして徹底されていたならば、その後の仏教の歴史は、根底から違ったものになっていたかも知れない。

ブッダの心象を忖度すればするほどに、私はそう思わずにはいられないのだった。

 

今回登場するアーナンダを中心とした様々なエピソードは、年のせいか最近とみに減退著しい私の曖昧な「記憶」に基づいて書かれており、いちいちソースを確認していない。興味のある方は、それぞれ経典にあたって確かめてみて欲しい。

 

(本投稿はYahooブログ 2015/6/5「悟れなかったアーナンダ尊者」を加筆修正の上移転したものです) 

 

 


にほんブログ村