仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

マインドフルネスの軍事利用と大衆支配の構造

最近ツイッター経由で、懐かしい知人の情報に触れた。ドイツ人の曹洞宗の禅僧で、名前はネルケ無方さんという。以前から一部では知られていた兵庫県の山間にある「安泰寺」という修行寺の堂頭を務めておられる。

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風晃園より、安泰寺本堂

私が安泰寺に初めて参禅したのはかれこれ二十数年前の学生時代、確か1990年前後だと記憶している。その頃から私の中では地球環境問題と「仏教」というもののリンクがひとつの明確なテーマになっていたので、山奥で自給自足の生活をしながら、それを禅の修行と両立させている、という安泰寺のスタイルに強く惹かれて、上山させて頂いた。まだ先代の宮浦さんが堂頭だった時代だ。

その後時は流れ、インド武術に夢中になっていた2005年頃から私の中で仏教回帰の機運が起こり、再び参禅をお願いしたのが、確か2006年か7年の頃になる。その時の住職(堂頭)が無方さんだった。

無方さん時代の安泰寺での参禅は都合二回ほど、一回の滞在期間は1ヶ月弱くらいだったろうか。参禅と同時に作務での様々な作業、特に専門の山仕事の技術を生かして、木を伐採したり草刈りしたりするのが大いに楽しみだった。

私にとっては色々な意味で安泰寺という存在はある種の原郷に近いもので、今でもあのような「場」で出家して作務と修行に専念したい、という気持ちは心のどこかに尾を引いている。

そんなこんなで、ツイッターのつぶやきの海の中にたまたま無方さんの名前を見つけた私は、さっそくリンクをたどって現在の安泰寺と無方さんの「今」を知っていったのだが、これがもう、大きな驚きだった。

1990年当時の安泰寺は、それこそ「知る人ぞ知る」を地で行っているような存在で、少数の日本人が本当に『隔世』の修行生活を密かに?行っているようなところだったのだが、2006年ごろに再訪した時には住職の無方さんがドイツ人という事もあって、多くの外国人でにぎわう国際僧堂に変貌していた。

また日本人参禅者もかなり増えており、全体的にかなり「カジュアル」に変貌した印象を受けた。しかし人は替わってもお寺が存在する場の磁力は変わることなく、あの壮大なスケール感と別世界感はやはり私にとってはすこぶる魅力的なものだった。

しかし様々な雑音やしがらみの中で色々と考え、感じるところもあって、結局あの時点では、私は安泰寺で出家する、という選択はしなかったのだった。

当時の私は山仕事をしていた関係で和歌山に住んでいたのだが、その後、両親の介護の事もあって静岡から東京へと、兵庫の安泰寺からは遠ざかる方向に移動を続けた事もあり、いつしか足も遠のいてしまった。

そして今回、久々に安泰寺の名前を聞いて無方さんの近況を知って、まず驚いたのは、世間における露出、あるいは情報発信量の多さだった。

何冊か本は出されているな、という認識はあったのだが、それが両手に余るほどの冊数になっていて、多くのテレビ出演、様々な講演会や外部座禅会への進出、さらには大量のYoutube動画の発信など、正に隔世の感があって、この10年弱の間に、一体何が無方さんに起こったのだろうか、というのが第一印象だった。

これはおそらく、檀家を持たない自給自足の安泰寺を運営していかなければならない堂頭としての無方さんが、熟慮を重ねた末の選択だったと思うので、私ごときがとやかく論評する事は控えたいと思うし、この「変化」自体は今回本ブログで無方さんを取り上げた「本題」ではない。

本題は、そもそもツイッターで無方さんの名前を発見した、そのリンクに関っている。そのリンクはYoutubeのものだったのだが、安泰寺からアップロードされたビデオの中で、無方さんが昨今流行りの「マインドフルネス」ついて、舌鋒鋭く「こんなものは仏教ではない!」と批判していた、という話なのだ。

そのトピックスの焦点になるのは、

アメリカにおいては『マインドフルネス』が『軍事利用』されている!」

という、衝撃的な事実だった。

そう、ブッダの瞑想法のサティに由来する、あのマインドフルネスが、だ。

しかし、これはある意味、さほど驚くほどの事でもなく、皮肉な言い方をすれば『順当な結果』、とも言えるかも知れないのだが。

その詳細を書く前にどうしても触れておきたいのは、そのビデオの中の無方さんの表情というものが、とても印象に残るものだった、という点だ。

私の見立てでは、無方さんという人物は、ある種「肚(はら)」をくくった「漢(おとこ)」なのだろう。その「おとこ」が、自分の人生そのものを背負って、皮相的な『マインドフルネス・ブーム』に対して怒っている。「ふざけるんじゃねーぞ!」と。

この点彼は、同じ安泰寺出身でもやはり旧知の山下良道さんとは、ある意味対照的なキャラクターと言えるかも知れない。

お二人の修行期間が安泰寺においてダブっていたのかどうかは分からないが、多分、両者の関係性で言えば、水と油、というのがピッタリではないか、と個人的には想像してしまう。

無方さんの強い目力と引き結んだ口元には、ふやけた日和見メディテーターとは一線を画した、強固な「決意」が感じられた。歴史と伝統ある安泰寺禅堂を背負って立つ「おとこ」の気迫とでも言うのだろうか。

それが下のビデオになる。無方さんは独特の日本語回しでやんわりとしかし決然とマインドフルネス・ブームの流れを批判している。

今回の本題である『マインドフルネスの軍事利用』についてだが、重要なのは、この米軍によるマインドフルネスの組織的活用というものが、退役軍人の実戦経験に由来するPTSD(任務後ストレス)の緩和とメンタルケア、などを主目的としているのではなく、軍務に実戦配備される前の、いわば『練兵』トレーニングの一環として導入されている、という圧倒的な事実だ。

無方さんもビデオの中で一部抄訳しているが、改めて当該米軍公式サイトより、印象的な部分を見ていきたい。

まずタイトルだが、これは『マインドフルネス・トレーニングによる軍事的回復力の増強』と訳しておく。

米陸軍公式: Improving Military Resilience through Mindfulness Training より一部抜粋抄訳引用。

The strength of the U.S. military has always been dependent upon the strength of the Soldiers within its ranks. The strength of individual Soldiers--the cognitive functioning and physical capability of Soldiers--these are the most critical elements to overall military health and resiliency.

 

米軍隊の精強さとは、常に様々なランクにおける兵士たちの精強さに依って立つものである。個々の兵士たちの精強さーー これは兵士たちの認知機能と身体対応力であるが-- これらは軍隊の健全性と回復力において最も重要な要素となっている。

 

Mindfulness, a state of mind where the brain is considered to be attentive of the present moment without judgement, has proven to be a promising mental health intervention for Soldiers post-deployment, helping them to deal with the psychological toll that deployment can take on mental health, according to experts.

 

複数の専門家によれば、マインドフルネスと呼ばれる、どのような価値判断をも持ち込まずに現在の瞬間にただ『気づいている』という心の能力は、実戦配備後の兵士たちの心の安定に大きく寄与し、彼らが精神的な負荷に向き合う事を助け、軍務が健全な精神力に基づいて行われることを可能にするという。

 

However, the period before a Soldier is deployed is just as demanding and stressful. Psychologically preparing to face dangerous, high-performance, high-stress situations, while also having to leave loved ones and the familiarity of home behind, can be an overwhelming and anxiety-plagued time in any Soldiers life.

 

どちらにしても、兵士が実践配備される直前の期間、彼らは多くの非日常的な事柄を要求され、強いストレスにさらされる。生命の危険にさらされる事について精神的な覚悟を、その中で高度の能力を発揮し続ける事を、そして愛する家族と別れねばならない事を常に求められるなど、兵士の生活とは圧倒的なストレスにさらされ不安に苦しめられる事が多い。

 

It is not enough for a Soldiers physical body to be trained, it is also vital that the mind be fit and ready, equipped with a "mental armor" of sorts.

 

兵士たちにとっては、肉体的な鍛錬だけでは十分ではなく、ある種の「精神的武装化の一環として心を適応させ準備し、装備する、という事が必須となる。

 

A University of Miami-led research study, led by principal investigator and neuroscientist Dr. Amishi Jha, and funded by the U.S. Army Medical Research and Materiel Command, has shown that mindfulness meditation exercises positively support active-duty Soldiers in protecting and training their own minds and helping better prepare Soldiers for high-stress combat situations while also improving overall cognitive resilience and performance.

 

U.S.Army(米陸軍)が設置した医学的調査において、神経科学者のアミシ・ジャーを主任研究員として行われたマイアミ大学の研究によると、マインドフル瞑想実践は従軍下の兵士たちが自分の心を守り訓練する事を大いにサポートし、彼らが強度のストレス下に置かれるような実戦状況の中でよりよい準備をする事を助け、さらに相対的な認識能の回復と技能の向上に資する事が明らかとなった。

~以上、引用終わり。拙訳ご容赦。

ここで書かれている内容の主旨は、非常にざっくりと言うと、米軍は射撃訓練や格闘訓練など、主として肉体的な技能向上を目的とした訓練と並行して、ある種の精神的な戦闘能力の向上訓練という側面からマインドフル瞑想を取り入れ、その実践的(実戦的)成果を実証している、という事になる。

先にも言ったが、ここではベトナム帰還兵やイラク帰還兵で問題になった、実戦経験によって刻まれた心の傷が原因になって起こるPTSDや自殺、麻薬や酒への耽溺、社会的不適応など、いわば戦後の精神的諸問題に対するアフターケア、としてマインドフルネスが活用されている訳ではなく、戦争の準備として、より有能な人殺しの兵器としての兵士(キリング・マシーン)をつくる為に、そのパフォーマンスを最大化するために、マインドフルネス瞑想が活用されている訳だ。

中でも注目なのは、彼らがこの記事の冒頭に、わざわざ以下のように言及している点にある。

マインドフルネスと呼ばれる、どのような価値判断をも持ち込まずに現在の瞬間にただ『気づいている』という心の状態は、実戦配備後の兵士たちの心の安定に大きく寄与し、彼らが精神的な負荷に向き合う事を助け、軍務が健全な精神力に基づいて行われることを可能にするという。

これは、兵士が戦場において直面する最も大きな精神的ストレスが、倫理的ジレンマ、つまり戦場において敵兵や時に民間人を殺さなければならないという事からくる、道徳的・倫理的恐怖や罪悪感、である事を暗黙の前提としているのだろう。

要するに、マインドフル瞑想トレーニングを『実装』した兵士は、戦場において今この瞬間に『どのような価値判断にも動揺することなく』、ただ気づき続けることが可能になり、軍務において今この瞬間にやるべきことを成し遂げる事が出来る、という事だと思われる。

これは考えてみればある意味至極当然の流れかも知れない。最近は日本の内外でGoogleをはじめとしたビジネス・フィールドにおいて、ヴィパッサナーに由来するマインドフルネスが、ビジネス・パフォーマンスの向上、をうたい文句にして導入され、一定以上の成果を上げて持て囃されている。

日本で日本人によって書かれたマインドフルネス関連本にしても、生産性の向上やビジネス・フィールドにおけるパワーアップをその効能に掲げるものは無数にある。

それは要するに、有能な「ビジネス戦士」を養成するために、マインドフル瞑想が極めて有用である、と言う主張に他ならない。ならば本物の軍隊戦士のパフォーマンスを向上するためにも、件の『マインドフルネス』が極めて有用であろうことは、自然な流れとして当然出て来る話なのだ。

問題は、上記のような文脈において語られる『マインドフルネス』と本家仏教瞑想のマインドフルネス、つまり『サティ』との関係性、そして、この軍事・ビジネス利用されるようなマインドフルネスに対して、瞑想指導者、なかんずく仏教者がどのようなスタンスで向き合うのか、という点にある。

これに対して安泰寺の無方さんはいち早く、軍事利用されるような『マインドフルネス』の危険性を指摘し、「こんなものは仏教とは関係ない」と喝破している。

その他の瞑想指導者・仏教者、今日本では様々な文脈に属する様々な名前がメディアで喧伝されているが、彼らは自らが推進する「マインドフルネス」というものが、その「卓越性」によって『軍事利用』されている、という事実にどのような反応をしめすのか、我々は興味深く見つめるべきだろう。

このマインドフルネスと軍事・戦闘という問題。実は私個人にとっても極めて身近で切実な問題だった。

私がそもそも瞑想修行というフィールドに入ったのは、1995年に初めてインドを訪れ、そこでまずヨーガの基礎を習い、数か月後にネパールでゴエンカジー系のヴィパッサナー・リトリートに参加したのがきっかけだった。

それ以前にも学生時代から禅修行に興味があり、安泰寺をはじめとしていくつかの禅寺で参禅した経験はあったのだが、いわゆる土着インド教的な瞑想実践の世界に参入したのは、このインド放浪が契機となっている。

その後、数年をかけてインド・アジアを放浪しつつ、ヨーガや瞑想について一通りの実践と教養レベルの学習はしたのだが、そのほとんどが英語を通じてだったためもあり、いまいち隔靴掻痒の感は免れ得なかった。

そして、ここは重要な点なのだが、この期間タイの瞑想寺で一か月のリトリートをしていた時に、歩く瞑想のさなかに「ジャーナ」に入る、という経験をしてその鮮烈さに心動かされ、目を開いて身体を動かしながら行う、いわば『動的瞑想』とでもいうものに興味を持ち始め、その流れで帰国後に縁あって合気道の修行を始めることになった。

合気道とは本来武道・武術であり、その原像は武士の格闘術、すなわち「軍事技術」に他ならない。

当時の私はあまりそのような意識はなく、合気道開祖の植芝盛平が武術家であると同時に大本教的な文脈における『霊的瞑想行者』であった、という点により心惹かれたのだが(なので私は強くなるという事は眼中になく、行を深める、という観点から稽古に励んでいた)とにもかくにも、結果的に私はあの当時、すでに「瞑想実践によって獲得される心的資質を武(戦闘)に活用する」という立場を体現してしまっていた事になる。

それ以前から、日本の禅の伝統において、しばしば「剣禅一如」という事が標榜される、という事実ももちろん知っていた。ヴィパッサナーによって涵養された心的資質によって、この剣禅一如というものが、果たして自分自身にどのくらい体現可能か、というのも興味の焦点には確かにあったのだ。

そして極めて密度の濃い稽古・修行が2年半ほど続いたのだが、その間、幾度か非日常レベルの集中、現代的に言えば「ゾーン」に近似した状態を体験した。

その結果考えたのは、私自身は戦士あるいは格闘家としての資質は余り高くはないが、もし仮に、そのような資質に恵まれた者が、あるいは軍隊などでシステマチックに戦力を養成された精強な兵士が、私が経験したような「雑念の無い集中」に至るようなある種の『瞑想力(定力)』を併せ持ってしまったら、彼は戦場において、卓越した無敵の『殺戮者』になれるかも知れない、という戦慄的な直観だった。

そもそも日本の禅仏教において「剣禅一如」という事が喧伝されたのも、日本の禅が、伝統的に武士階級、つまり侍=戦士=軍事専門家、に寵愛された史実がその背景にある。

その後江戸時代という平和な時代が長く続く間に、何時しかその「剣禅一如」は哲学的思想的なベクトルを強め、ついには「剣を抜かずに、戦わずに争いを鎮める」というような精神的彫琢、すらも主張し始めるのだが、しかし、本来の「剣禅一如」とは、如何に不動・清澄な精神状態、いわゆる「無念無想」あるいは「空」を確立して、戦場において死の恐怖を克服し迷いなく戦い、有能な『殺戮者』になるか、という実践的な興味に焦点が置かれていた事は間違いないだろう。

禅を修める事によって、恐怖や逡巡といった精神的な「バグ」を克服し「パフォーマンス」が高められ「勝率」が上がる事を期待して、戦国武将や大名たちは禅の師家のもとに参じたのだ。

そう考えると、今回取り上げた「マインドフルネスの軍事利用」というトピックスは、決して目新しい驚くべき様な事ではなく、時代を超えて歴史を繰り返しているに過ぎない、と言っても良いだろう。

以上を踏まえて言えば、米軍によって精神調練の一環として活用されている「マインドフルネス」に対して「そんなものは仏教ではない!」と喝破した無方さんは、もし問われたならばこの「剣禅一如」の問題についても何らかの意見表明をする、いわば「説明責任」はあるかも知れない。

残念ながらこのような語り口の歴史は現代においても古く、例えばヨーガの様々な修行法がNASAの宇宙飛行士の訓練に取り入れられていた、という前例も既に存在する。

初期の宇宙飛行士は米空軍出身者(精鋭パイロット)が多く、宇宙飛行士に求められる資質と優れた軍人・兵士のそれとは大いに重なり合うのだ。

結局のところ、私の考えでは、ヨーガや瞑想・禅というものの目的や効果が「心身パフォーマンスの向上」という一点で語られる限り、このような状況はある意味必然である、という事なのだ。

では当のブッダ本人や、ヨーガの体系を確立した古代インドの祖師たちは、一体何を目的に修行に邁進したのだろうか。そして彼らが経験し到達したであろう意識の地平とは、剣禅一如とかマインドフルネスの軍事利用とかで扱われるレベルの精神的陶冶と、どのように差別化され得るのだろうか。

この点は、昨今の仏教ブーム・瞑想ブームの波に乗って活躍されている諸先生方に、是非ともご意見を伺ってみたいところだ。

(以上はYahooブログ2016年7月25日投稿を修正の上移転したものです)

ここからは2019年現在の記述になる。何故このタイミングで上の記事を移転したかというと、ネット上でひとつの記事を目にしたからだ。

それはグーグル的なマインドフルネスが、労働者の搾取の手段になっていると言う告発的な啓もう記事だった。

上のリンクは有料記事になってしまっているが、私はSmartNewsで全文を読む事が出来た。その内容をかいつまんで言うと、ツイッターにも書いたのだが、

「かつて欧米のプロテスタントの信者たちが、過酷な労働でも懸命に働けば「神に選ばれる」「天国に行ける」と信じていたように、どんなにストレスを感じてもマインドフルネス瞑想で乗り越えられれば「出世できる」と刷り込まれている現代人が少なくない」

という事だ。

仕事上の過剰なまでのストレスと言うものは、様々なレベルにわたり、本来であれば経営陣がマネージメントすべき領域も含まれている。例えば典型的なブラック企業に勤める事によって課される強いストレスと言うものは、本来会社側の労働環境改善によって解消すべきなのだ。

しかし、この軍事を含めビジネス領域におけるマインドフルネス瞑想実践の普及は、本来なら果たすべき会社側の責任を全く棚上げにして、ストレスの解消が個人レベルの問題に還元され丸投げされてしまう。

しかもその目的はパフォーマンスの向上(!)だ。

たとえ不条理を押し付けられた結果のストレスであっても、瞑想によってそれが解消されてしまったなら、そこにあるはずの本質的な問題(ブラック企業である事)が問題視されなくなる。

これは根深い問題で、例えば先の軍事の話に戻れば、そもそも戦争あるいは戦場で戦い人を殺すという事は、極めて非人間的で精神的に強度のストレスがかかるものであり、心を病むのはある意味当たり前の事なのだ。

しかしその当たり前の反応が瞑想実践によって『無化』されてしまえば、その様な「非人間性」を批判する根拠が失われてしまう。

実際にベトナム戦争では戦場で精神を病んでしまった帰還兵の存在がアメリカにおける反戦運動の大きな原動力になった。

もし全ての兵士がどのような戦況においても精神の平衡を保ち恐怖や逡巡や後悔を感じないAIの様に冷徹かつ強靭な兵士になってしまったら、一体どうなってしまうのだろう(実際にはその様な『完全』はあり得ないが…)。

恐怖や逡巡や後悔を感じながら、そのストレスを蓄積し病む人間だからこそ、厭戦と平和への機運が高まるのではないのか?

軍事的マインドフルネスについて、先の米軍サイトはいみじくも言っているが、

どのような価値判断を持ち込まずに現在の瞬間にただ『気づいている』という心の状態は、実戦配備後の兵士たちの心の安定に大きく寄与し、彼らが精神的な負荷に向き合う事を助け、軍務が健全な精神力に基づいて行われることを可能にするという。

この「どのような価値観も持ち込まず現在の瞬間にただ気づいている」事を『常態』とした時、それはひたすら完全に無批判な現状肯定を意味しないだろうか?

その様な従順で高性能なロボットの様な兵士、あるいは労働者こそ、使用者側にとっては最も使い勝手が良いのだと。

実はこの問題は現代的(欧米的)なマインドフルネスだけではなく、伝統的なテーラワーダ仏教国においても既に起きている事だ。

よいことであれ悪いことであれ、物事は私たちがそれに値するから起こるのです。

ひとたびこのことを、非常にはっきりと理解すれば、あなたは非難することをやめてしまいます。自分の業を非難することすらやめてしまうのです。両親や政府を、非難することもやめてしまう

私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです。

物事は自分がそれに値するから起きているということを、ひとたび理解すれば、あなたは学び、成長し、そして変化する。そうすれば、物事はどんどんよくなっていきます。

『自由への旅 ~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~』(ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳)より

この本は、軍事独裁政権下のミャンマーで生まれ育ち、後に出家して瞑想指導者になったウ・ジョーティカ比丘がオーストラリアの講演で語った内容をまとめた物らしいが、おそらく全く同様の文脈でミャンマー人に対しても教え諭しているのだろう。

その背後にはいくつか問題ある思想性が横たわっている。それはテーラワーダ仏教全般に共通する輪廻転生と自業自得の世界観だ。

「物事は私たちがそれに値するから起こる」

というのは、現世の日常において起こる良い事も悪い事も「前世」における自分の行為(業)の蓄積の結果であり、誰か他者が悪いのではない、という思想。過去に自分がおこなったなりの事を今自分が受けている、という自業自得。

例えば、これを今香港で勃発している民主化闘争に当てはめれば、公安の攻撃を受け心身が傷ついた学生達は、そうされるに相応しい(前世の悪業による)から弾圧される、事になってしまう。

そして

「私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです」

は、過去世において自分が行った悪業も忘れて、悪いことが起きれば責任転嫁して他者のせいにする、と言う指摘であり、「責任をとる」という意味は、前世の悪業を帳消しにするような善業を自分が現世で積むか、あるいはその悪業を払しょくする為に瞑想修行する、事を意味する。

自分に責任があるのに他者を責める、という事自体悪業なので、増々事態は悪化します。前世の悪業に加えて現世の悪業を上塗りするからです。だから善業を行い、瞑想修行をして心を整えなさい。そうすれば、両親や政府など他者を責める事もなくなりますよ、と。

問題なのはウ・ジョーティカ比丘が軍事政権下のミャンマーで支配されている大衆に向けてこの様な説法を続けてきた事にある。

その様な状況は、ブラック企業に勤めるストレス多き労働者が、正に「どんなにストレスを感じてもマインドフルネス瞑想で乗り越えられれば「出世できる」と刷り込まれている」状況と変わらず、「どんなに軍事政権下の不条理によってストレスを感じても、ヴィパッサナーで乗り越えれば来世に善趣を得られる」という様に誘導されていく。

テーラワーダの思想では、瞑想のさ中に到達できるサマディのレベルと、来世に再生できる天界のレベルが密接に結びつけられていると言う。

ミャンマーとタイは共にヴィパッサナー瞑想の大衆レベルでの実践が盛んな国だが、実は共に軍部が非常に力を持って社会をその根底において支配している国でもある。

長らく軍事政権が続いたミャンマーは現在体裁上は民主化を遂げたかに見えるが、内実は旧来とほとんど変わらない。

またタイは一見軍事独裁国家には見えにくいが、やはり軍部が社会の支配層と結託して民衆に圧制を敷いているという点では変わらない(そのため、民主化運動など都合の悪い機運が高まるとしばしば軍事クーデターでひっくり返される)。

実は先のウ・ジョーティカ比丘の語り口はテーラワーダ仏教に普遍的に通底する文脈で、伝統的にとても「支配する側にとって都合がいい」内容になっている。

それもそのはずで、テーラワーダ仏教は、おそらく古代インドの時代から「支配者が民衆を調御する為に格好の道具として用いられてきた」歴史があるからだ。

何故王たちや富商たちは支配階級に生まれる事が出来たのか?

それは彼らが前世に多大なる善業を積んできたから。

では何故、私やあなたはこんなにも貧しく虐げられているのか?

それは私たちが前世で多大なる悪業を積んできたから。

つまり、現世の現実生活におけるあらゆる苦難に満ちた逆境は、全て自分自身に原因がある。たとえ鞭打たれても、前世で善業を積んできた尊い支配者様たちを責めるなどと言うのはダルマに反する、と。

この様な伝統的な大衆コントロールの上に、瞑想実践までが加わったのが現代のミャンマーでありタイに他ならない。

そして、支配の道具として民衆を調御するに多大なる威力を持った瞑想実践が、マインドフルネスと名前を変えて、欧米社会にももたらされた。

よいことであれ悪いことであれ、物事は私たちがそれに値するから起こるのです。

ひとたびこのことを、非常にはっきりと理解すれば、あなたは非難することをやめてしまいます。自分の業を非難することすらやめてしまうのです。両親や政府を、非難することもやめてしまう。

私たちはいつも非難しています。責任を、他者や状況に押し付け続けている。十分な責任をとってはいないのです。

物事は自分がそれに値するから起きているということを、ひとたび理解すれば、あなたは学び、成長し、そして変化する。そうすれば、物事はどんどんよくなっていきます。

再掲

たとえ輪廻転生を信じない現代社会だとしても、様々な領域で様々なレベルのブラックな状況下に喘ぎつつ何とか生きている人々が、もし上の言葉を真に受けて瞑想実践を行ったら、その事によって「他者を責める事がなくなったら」、一体それは誰にとって一番都合がいい事だろうか。

もちろん、瞑想実践を通じて彼が心の安らぎを得たのならばそのメリットは大きい。しかしその背後で他に誰か、利益を得ている者はいないだろうか?

理不尽な他者に対する『怒り』というものは社会変革を起こすための最も強力な原動力に他ならない。大衆の怒りがなければフランス革命も共産革命もついぞ起こらなかった事だろう。

瞑想ブームの背後にある抜きがたい『構造』。

仏教瞑想やマインドフルネスに興味のある方は、そんな角度から一度、距離をとって俯瞰して観る事も必要かもしれない。

 


 

 


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