仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ビルマにおける近代ヴィパッサナーの夜明け1

前回投稿では、欧米的なマインドフルネス批判からの流れで、ミャンマーなどテーラワーダ圏における仏教の信仰や瞑想実践がどのように大衆を支配する道具として活用されて来たか、という事に言及した。

そこで今回は、そのミャンマービルマ)におけるヴィパッサナー瞑想の『起源』について書いたYahooブログ2016年2月27日投稿「ビルマにおける瞑想実践の起源」を移転掲載したい。

最近『On saints and wizards』という英語テキストを漸く読み終えた。これはPatrick PrankeというUniversity of Louisvilleの仏教研究者が書いた論文のダイジェストだ。

私の英語力はネイティブからは程遠く、基本的に大学の教養レベルのごく普通の日本人英語をインド放浪の実践的な必要によって “ブラッシュ・アップ(ダウン?)” したものなので、英語ネイティブが書いた、しかも学術論文などと言うものを辞書なしでスラスラと読みこなす能力などかけらもない。

インド英語と言うものはご存知の方もあるだろうが、とてつもなく訛っている。有名なところはRの発音で、車のCarがインド人の口からは“カール”と発音される。最初の頃はよく『カールおじさんかい !?』と心の中で突っ込んだものだ。

そんなインド英語と渡りあう事だけはある程度自信がある(逆にアメリカ人の流暢な英語は理解不能)のだが、年のせいもあってか、やはり難しい英語の文献を読みこなすのはかなりしんどい。

この『On saints and wizards』もしばらく前にネット上で発見して落してあったのだが、チラ見してそのあまりの衝撃的な内容に当惑したこともあって、PCのハードディスク上に放置してあった。

しかし、本ブログの主題がブッダの瞑想行法の原像』と言うテーマである以上、やはりその言及内容はどうしても避けて通れないものなので、腹を据えて読み始めた。

著者は論文の中で、ビルマミャンマー)における近代ヴィパッサナーの起源について古文献等を紐解きながら詳細に検証している。

本ブログを読むような方ならば、すでにご存じかも知れない。その内容は、日本人のヴィパッサナー信奉者にとっては、ある種衝撃的なものだった。

以下に『On saints and wizards PDF』から引用する。

2. The revival of vipassanā and its initial reception

It seems that prior to the eighteenth century in Burma, as elsewhere in the Theravāda world, it was generally believed that it was no longer possible to attain enlightenment and hence nibbāna through vipassanā or any other means during the present age.

The reason given for this was that the Buddha’s 5000-year sāsana had by that time simply declined too much for such an attainment to be within reach.(4)

What was left for faithful was the path of merit-making by means of which they could hope to be reborn in the presence of the future Buddha, Ariya Metteyya, many millions of years from now.

At that time, as Metteyya’s disciples, enlightenment and liberation
would be easy.(5)

筆者の抄訳(他の部分も若干加味してまとめている。以下同)

2.ヴィパッサナーの復興とその初期受容

18世紀より以前のビルマならびにテーラワーダ諸国においては、一般に現世においてヴィパッサナー瞑想によって、あるいは他のどの方法によっても、ニッバーナに至り覚りを開く事は不可能である、と考えられていたようだ。

その理由は、ブッダの教法の5千年周期説によって、現在はすでに仏法がすたれた末法・末世にあたるので、どのように努力したところで、原理的に悟りなど開けるはずはない、と考えられていたからだ。

その替わりに比丘を中心とした信者に強く奉じられていたのが、弥勒菩薩(メッテーヤ=マイトレーヤ)信仰に基づいた来世志向であった。

現世においてはどんなに努力しても悟りを開く事が出来ないのだから、現世においては出来る限り善業(メリット)を積んで遥かな未来において実現されるであろう弥勒菩薩が降臨する時代に生まれ変わり、その弥勒菩薩の指導・感化の下で悟り・解脱・ニッバーナに至る本番の修行にいそしもう(その方が現世において努力するより簡単だ)、という考え方だ。

(4) While the belief that the Buddha’s sāsana or religion is in decline and will one day disappear from the world is pan-Buddhist, the notion that it will last specifically 5000 years is particular to the Theravāda and is first attested in the 5th-century commentaries of Buddhaghosa and in the Mahāvaṃsa. See e.g. Jayawickrama 1986: 27; Geiger 1993: 18. Note that Geiger gives “five hundred years” where it should read “five thousand years” (pañcavassasahassāni).

注記(4):ブッダの教法が彼の死後徐々にこの世界からすたれていって最後には滅びてしまうという思想は、あらゆる仏教徒に普遍的に存在するが、特にそれが5千年というスパンで考えられていたのはテーラワーダ独自のもので、それが最初にあらわれるのは5世紀のブッダゴーサの論書とマハーヴァンサである。

(5) Since at least the 11th century, inscriptions at Pagan and elsewhere in Burma have recorded the wish of donors to attain liberation as disciples of Ariya Metteyya or to become bodhisattas at that time. See e.g.Ray 1946: 162; Pe Maung Tin 1960: 383–384.

Liberation at the time of Metteyya has also been the most commonly made wish of scholar-monks expressed in the colophons of their learned treatises. See e.g. Namaw Sayadaw 1992: 162.

Richard Gombrich (1995: 333–334) reports that as late as the 1960s, the majority of Buddhists in Sri Lanka held the view that liberation is impossible until the advent of Maitrī (Metteyya).

注記(5):少なくとも11世紀以降に書かれたパガン(ビルマ族による最初の古代王朝)やその他のビルマ各地の文献には、弥勒菩薩が降臨した時代においてその弟子となりニッバーナ(解脱)を得たい、あるいは菩薩になりたいという寄付者の希望が記録されている。

弥勒菩薩の時代において解脱する、という希望は、テーラワーダの学僧たちによって論学書の奥付などの中で一般的に言及されている。

リチャード・ゴムリッチによれば、少なくとも1960年代までは、スリランカ仏教徒のマジョリティの間では『弥勒菩薩が降臨するまでは、解脱は不可能である』と信じられていた

The earliest known record of someone who challenged this assumption
is that of a monk from the Sagaing Hills in Upper Burma named Waya-

zawta whose movement flourished during the reign of Maha-damma-yaza-dipati (r. 1733–1752).

Waya-zawta promised his followers sotāpanna through anāgāmī status if they would follow his teachings. Unfortunately for his disciples, upon his death his movement was suppressed by the Burmese crown as heretical.
Writing a century later, the scholar-monk Monywe Hsayadaw(1767–1835) noted somewhat wryly in his royal chronicle, Mahayazawin-gyaw, An elder monk named Waya-zawta, who lived in the village of Watchek,
used to preach to followers of his doctrine that they had become
ariya sotāpannas. Many monks and laymen became his disciples and
soon they could be found in every town and village of Upper and
Lower Burma declaring, ‘I have become a sotāpanna, I have become
a sakadāgāmī!’

After Waya-zawta died, an investigation was held of monks dwelling at his place who continued to preach his doctrines.
When these monks admitted to their teachings, the king had them
defrocked and ordered them to shovel elephant and horse manure [in
the royal stables].(6)

意訳:このような(解脱を未来に先送りにするような)定説に対する最初の挑戦は、上ビルマのサガイン・ヒルから来たWaya-zawtaによって18世紀の中ごろに行われたようだ。

不還果を得た立場からWaya-zawtaは、彼の信奉者に対して彼の教えにしたがえば預流果に至れる事を約束していた。弟子たちにとって不幸なことに、Waya-zawta師の死後、王権によってこのような教えは異端として断罪された。

その後学僧であるMonywe Hsayadawによって記述された内容を見ると、そこではWatchek村に住む長老比丘によって独自の教えが説かれ、その弟子たちは聖なる預流者になった事が記されている。その教えは多くの比丘や在家信者によって支持され、ビルマの至る所で「私は預流果に至った、一来果に至った」と宣言する者が輩出したという。

しかしWaya-zawta師の死後、その教えを継承していた比丘たちは王権の調査・糾明によって異端の罪人として捕えられ、罰として象や馬の厩舎の堆肥掃除を命じられたという。

Nothing more is known of Waya-zawta’s movement or its doctrines, but one can peculate as to why it gained such wide popularity and why this in turn aroused hostility from the king.

During the first half of the eighteenth century the then Burmese Nyaungyan Dynasty (1597–1752) was in precipitous decline. Historically, conditions of uncertainty and unrest have often prompted religious thinkers across cultures to reappraise their traditions in pursuit of truths and benefits more relevant for a world in crisis.

The promise of immediate ariya attainment, the highest felicity of the Buddha’s dispensation, must have seemed especially attractive amidst the warfare and anarchy of the time.

意訳:Waya-zawtaの思想やその運動の詳細については分かっていないが、何故この運動がそこまでの人気を得、それが何故王権によって敵視されたのかは、ある程度推測する事が出来る。

18世紀の前半において、当時のビルマ人王朝であるNyaungyan Dynastyは崩壊の過程にあった。歴史的に見て、このような不確実で不穏な社会情勢の中では、あらゆる文化領域を通じて、宗教的な思索者は破局的な社会の中で意味を持つ確固たる真実を伝統的な文脈の中に探し求める傾向がある。

現世における直接的な解脱(=ニッバーナ)、という仏教における究極の『福果』が約束される事は、このような戦争と無秩序による苦しみの最中においては、人々の心を捉え励ますものとして非常に魅力的に映ったのだろう。

~中略~

3. The monk Medawi and Konbaung court patronage

Shortly after Waya-zawta’s movement was suppressed, during a civil war which saw the destruction of the Nyaung-yan Dynasty, a young scholar-monk named Medawi (1728–1816) began writing vipassanā manuals in the vernacular.

Couched in the language of abhidhamma, these are the very earliest ‘how-to’ vipassanā books we possess from Burma.

Medawi’s earliest manual was completed in 1754, just two years after a new Burmese dynasty, the Konbaung (1752–1885), was founded.9 Other works followed in quick succession.
In the introduction to his Nama-rupa-nibbinda Shu-bwe completed in 1756, Medawi criticizes what he sees as the defeatist attitude of his contemporaries regarding the utility of meditation practice and the possibility of liberation in the present day.

As part of his argument he significantly redefines what it means for the
Buddha’s religion to go extinct.

3.比丘メダウィとコンバウン王朝による保護

Waya-zawtaムーブメントの弾圧の直後、Nyaung-yan王朝の崩壊に伴う内戦の最中、若き学僧であるMedawi (1728–1816)がヴィパッサナー瞑想法のマニュアルをビルマ語で書きはじめた。

アビダンマの用語を駆使して書かれたこの書は、私たちが現在ビルマで手にすることのできる、最も古いヴィパッサナー瞑想法の指導書のひとつである。

メダウィの最初の著作は、1754年に完成した。これは内乱の果てに新しくコンバウン朝が成立した直後の事である。その後続々と類書が著述された。

1756年に完成した「Nama-rupa-nibbinda Shu-bwe」の序章の中で、彼は同時代の一般的な瞑想の位置づけや現世における解脱の可能性についての否定的な考えを、敗北主義的と鋭く批判した。

その中でも彼が、ブッダの教法が仏滅後に衰亡するという伝統的な考え方を「再定義した」事は特筆すべきであろう。

「Abandoning what should be abandoned, and practicing what should be practiced according to [the Buddha’s] instructions, [these two things together] is what is called completing the ‘religion of practice’ (paṭipatti sāsana).

And it is only by completing the religion of practice that one completes the ‘religion of realization’ (paṭivedha sāsana),which is [none other than] the path and fruit of liberation.

[This being the case], should anyone ever believe, ‘I am unable to practice even so much as is necessary to attain the path and fruit of stream-entry!’ and [on the basis of this belief] only abandon what should be abandoned… and being content with the moral purity so attained, not engage in any further practice, then for that person it can be said that the religion of practice has gone extinct.(10)」

意訳:ブッダの教えに従って、捨て去るべきものが捨て去られる事、実践されるべきものが実践される事、この両立こそが『実践の宗教(paṭipatti sāsana)』の完成に他ならない。

そしてこの『実践の宗教(paṭipatti sāsana)』の完成によって初めて、私たちは『体現の宗教 (paṭivedha sāsana)』を完成できるのであって、それ以外に解脱の果への道(つまり比丘が行うべき悟りに至る仏道修行)はあり得ない。

例えばもし人が、「私には預流果の果報を得られるような実践をする事は不可能だ!」と信じてそのような信仰を基盤にして何かを捨て去ってしまい、戒条の順守とその清浄性のみによって自己満足に陥り、それ以上の(解脱に至る為の)実践を怠ってしまったならば、それこそが『実践の宗教』を衰退させるのだ。

We see in this passage that for Medawi the decline and disappearance of the Buddha’s religion is no longer an eschatological consequence of some cosmic devolution, but rather it occurs at the level of the individual, whenever anyone, out of complacency or a lack of confidence, chooses not to strive for enlightenment.

私たちはこのような文脈によって、メダウィ師にとって仏教の衰退と滅亡とは、終末論に基づいた宿命や宇宙論的な約束された遷移プロセスの結果などではさらさらなく、そうではなくて何よりも比丘(仏教徒)一人ひとりがチッポケな自己満足やあるいは信念の無さから、悟り(解脱)への苦闘を放棄してしまう(そんな怠慢の)結果としてもたらされるものだと理解できる。

う~ん、実にすばらしい。仏法が滅びるのは宇宙論的な宿命によってではなくて、私たちが怠慢だから滅びるのだよ、と言っている訳だ。

何において怠慢なのか。それは戒を守ったり経典を学んだりすることではなくて、何よりも瞑想修行実践を死ぬ気でやらない、という怠慢こそが、仏法を滅亡させる、そうメダウィ師は言っている。

これは当時のテーラワーダ仏教界にとって、ある種衝撃的な宣告として、受け止められたようだ。

ここまでをまとめると、スリランカをはじめビルマなど伝統的なテーラワーダの世界では、18世紀の初め頃まで(スリランカでは1960年代まで?)は『現世において瞑想修行によって解脱に至る事は不可能である』という事が一般的に信じられていた。

その背後には、いわゆる仏滅後の末法・末世思想と言うものがあり、彼らが生きている時代はすでに仏法が衰退した末法・末世の時代にあたるので、いくら頑張って瞑想修行しても、もはや人知を超えた宇宙的なダルマとしてそうなのだから、解脱する事はできない、という思想があった。

そのテーラワーダ的な末法思想ブッダゴーサにまで遡ることができるという。そう、パーリ経典を再編し、あのヴィシュディ・マッガ(清浄道論)を著し、現行のテーラワーダ仏教の礎を造った中興の祖とも言えるブッダゴーサだ。

では、仏教サンガは現世において解脱を得るために修行する代わりに何をどうしていたのかと言うと、実はこの末法思想とセットになった弥勒菩薩信仰と言うものの存在が鍵を握っている。

仏教が完全に滅び去った果ての56億7千万年後?に弥勒菩薩が降臨して正しい心を持った人々を救済してくれるという信仰体系があり、その予想される遠い未来の時代に生まれ変われば、弥勒菩薩という未来仏(Future Buddha)の教導の下で出家して瞑想修行して悟りを開く事が出来る、という事らしい。

なのでブッダゴーサの時代であれ、あるいは古代から中世のスリランカビルマであれ、彼らの時代はすでにブッダが亡くなって久しい、しかもまだ弥勒菩薩が降臨していない時代なのだから、何をどう努力しても、解脱なんかは生きている間にできる訳がない。できる訳がないから、解脱に向けた瞑想修行などしても意味がない。だから瞑想修行などしない、という事が一般的だったようだ。

ごく一部、解脱を志向し実際に瞑想修行する比丘がいない訳ではなかったらしくWaya-zawtaなどもその内の一人だったのだろうが、大勢としてはそれは異端に過ぎなかった。

では何故、ほとんどの比丘たちは何のために出家して、そこで何をどうしていたのか。

それは弥勒菩薩が降臨してその威力によって導いてくれる遠い未来に再生できるように、今現在の人生においてメリット(功徳)を積むために出家し、戒を守り、経や論を学び、それを後世へと伝えていた、という事だ。

テーラワーダ社会においては出家して比丘になる、という事が、最も功徳の高い行為のひとつとして称揚されている。

その様な文脈の中で仮に瞑想らしきものがなされていたとしても、それはあくまで解脱を求めてではなく多分にメリット(功徳)を積むため、であり、当然ながら解脱に至る方法論やメソッドなど不明な、ただ形だけ『座る』ものだったのだろう。

そのような伝統的な考え方に、18世紀になって(確認される限り)初めて反旗をひるがえしたのがWaya-zawta師であり、自身の参究の結果、何らかの契機により自ら不還果に至ったという自覚を得て預流果や一来果の可能性を提示して、弟子の比丘や在家信者に実践法を説いたようだ。

パーリ経典を普通に読めば、出家比丘の本義が解脱を求めて自らこの現世において瞑想修行する事にあるのは誰が見ても明らかな話なので、それを放棄しているマジョリティに対する疑問と反発から、独自に瞑想法を模索し実践する人々が、細々とは言えあったのだろう。

しかし、彼のこの極めて全うな教えは異端として政治的に弾圧されてしまった。瞑想修行実践によって何らかの『悟りと言う果』を現世において得ようという、出家比丘の本懐とも言える思想と実践が、異端として弾圧されたのだ。

しかし乱世の中、やがて次なるメダウィ師が登場する。彼は先に要約したように、『仏法が滅びるのは宇宙論的な宿命によってではなくて、俺たち仏教徒(出家比丘)が怠慢だから滅びるんじゃ、ボケなすが!』と一喝したのだ。

『ナ~ニを弥勒菩薩なんぞ云う居るかいないか来るかこないか分からんようなものを言い訳にして瞑想修行を怠っているのか!』

『仏法が滅びるも栄えるも全て自分の責任じゃ、瞑想しないお前自身の責任じゃ!』

と、まぁ、現地ビルマ語の口語で一喝したのでしょう(笑)

そこにおいて彼は、おそらくビルマ仏教史上初めて、ヴィパッサナーという言葉をその実践法とともに、現生において解脱へ至る道として説いた、と。

これがどうやら、すくなくともパトリック・プランク氏の解明したテーラワーダ史の真実であり、現代ヴィパッサナーの嚆矢であったようだ。

私としては個人的な現地体験も踏まえ、現状、彼の研究はかなりの精度で正鵠を得ている、と判断している。

Medawi wrote over thirty meditation manuals during his career and appears never to have been harassed by the Konbaung court. Indeed, during the reign of Bodaw-hpaya (r. 1782–1819), one of the dynasty’s most
religiously active and innovative monarchs, he was granted a royal title and a monastic endowment for his work on vipassanā.(11)

メダウィ師は生涯に30冊以上の瞑想実践マニュアルを書きあげたが、同時代のコンバウン朝によって弾圧される事はもはやなかった。

それどころかBodaw-hpayaという最も熱心に仏教を改革・推進した王の治世には、ヴィパッサナーに関する彼の業績に対して王の名において様々なタイトルが与えられ賞賛されている。

このコンバウン朝(1752~1886)はビルマ最後の民族王朝と言われ、その治世の前半はモン族やシャン族と激しく対立しそれを制圧、タイのアユタヤに攻め入ったり中国の清朝と交戦したりを繰り返している。

さらにアラカンやマニプール、アッサムというインド亜大陸の東北部に位置する諸王国に侵攻しこれを併合したり、とにかく荒っぽい王朝であり、時代であったようだ。

そしてその結果として当時インド亜大陸に進出していた大英帝国と激しく対立・衝突し、3度の対英戦争の後に最終的に滅ぼされ、イギリス東インド領の一部として併合されたのが1886年と言う事だ。

それにしても社会が戦乱の巷と化すのと比例して究極の平安・ニッバーナを求める社会的機運が高まる、という(皮肉と言うか必然と言うか)成り行きに、私としては複雑な感懐を禁じえない。

現在に至るヴィパッサナー瞑想の系譜は、このような戦乱と社会変動の真っただ中にあったビルマにおいて澎湃と勃興し再生したものであって、決してブッダの時代から連綿と絶える事なく受け継がれて来たものではなかった

この論文を踏まえれば、それが歴史的真実だったようだ。

その『再生』の、カギを握るのがレディ・サヤドウ師だ。

~次回に続く。 

(全ての翻訳は私が取りあえずザックリとしたものなので、興味のある方はリンクをたどって原文を参照ください)

 

 

 

 


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