仏の32相に見る「象の特徴」と『無上のナーガ』:瞑想実践の科学10
ブッダの瞑想法、その導入部に当たるアナパナ・サティにおける気づきのポイントが、動物の調教における『急所・焦点』である鼻先、額、耳、口、と重なり合っていて、それらが、パーリ経典の中では『顔の周りに思念を留める』というひとことで表現されていた。
調御される動物の中でも、馬はその顔の周りに頭絡と言う眼に見える装置を装着する事から、より象徴的な意味を持たされていた。
以上が、前回までのあらすじだった。
この一連の探求の出発点である “広長舌相” とは『仏の32相』のひとつであり、以前にもこれについて取り上げているが、今回は、再びこの原点に立ち返って、調御される動物と、さらには瞑想実践との重ね合わせから、その相関を見ていきたい。
ブッダのことば:第三 大いなる章、七セーラ
ブッダの所に赴いたセーラは挨拶を交わし、ブッダの眼の前に座ってまじまじと彼を見つめる。しかし偉人の特徴である30の相までは確認できたが、残りの二つ、身体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相だけは確認できず、ブッダを偉人と認める事ができない。
するとセーラの心の動きを察したブッダは、神通によって隠し所がセーラに見えるように示現し、次に、とても奇妙な行動をとる。
まず舌を出し、舌で両耳孔を上下に撫で、両鼻孔を上下に撫で、最後に前の額を一面に舌で撫でたというのだ。
この実に奇妙なブッダの行動が、耳と鼻と額と、それらを舐めた舌(口)という括りにおいて、動物たちの調教の急所と、呼吸瞑想の(内部的につながっている)気づきのポイントと、完全に重なり合っているのは偶然ではないはずだ。
その仏の32相について検討した投稿 “広長舌相とヨーガ” において、動物との関わりから抽出したのが以下になる。
5. 手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)
手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)
足趺すなわち足の甲が亀の背のように厚く盛り上がっている。8. 伊泥延腨相(いでいえんせんそう)
足のふくらはぎが鹿王のように円く微妙な形をしていること。伊泥延は鹿の一種。10. 陰蔵相(おんぞうそう)
馬や象のように陰相が隠されている(男根が体内に密蔵される)。19. 上身如獅子相(じょうしんにょししそう)
上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。25. 獅子頬相(ししきょうそう)
両頬(顎)が隆満して獅子王のようである。30. 牛眼瀟睫相(ぎゅうごんしょうそう)
睫が長く整っていて乱れず牛王のようである。
この時に私が注目したのは2項目で明言のあるライオン(獅子王)だったが、牛、象、馬という調御される3種の動物については、一見あまり顕著ではないようにも見える。
しかしこの間、私は牛や象や馬の画像や動画をネット上で渉猟し観察し続けたので、以前とは少し違った視点からこの仏の32相を見られるようになった。
その結果、明言はないものの、特に象と馬に関しては多くの重ね合わせが可能である事に気付いたのだ。
そこで改めて、以前と同じwikipediaの仏の32相を洗いなおして、まずは象について、ピックアップしていきたい。
1. 足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう)
足の裏が平らで、地を歩くとき足裏と地と密着して、その間に髪の毛ほどの隙もない(扁平足)。4. 足跟広平相(そくげんこうびょうそう)
足のかかとが広く平らかである。7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)
足趺すなわち足の甲が亀の背のように厚く盛り上がっている。9. 正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)
正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。20. 大直身相(だいじきしんそう)
身体が広大端正で比類がない。28. 梵声相(ぼんじょうそう)
声は清浄で、聞く者をして得益無量ならしめ、しかも遠くまで聞える。
上記のいずれも象と言う直接的な明言は存在せず、7については象ではなく亀と言う明言によって以前に取り上げたものだ。
しかし、これらが明確に、象のリアルな特徴を表している事を、以下に説明していこう。
1. 足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう)
足の裏が平らで、地を歩くとき足裏と地と密着して、その間に髪の毛ほどの隙もない(扁平足)。4. 足跟広平相(そくげんこうびょうそう)
足のかかとが広く平らかである。
私も初めて知ったのだが、象の足の裏には人間の様な土ふまずは存在せず、滑り止めの刻みを除けば外見上ほぼまっ平らで、しかも脂肪層の柔らかいクッション性によって、大地を踏みしめた時には隙間なく地面と密着する。
上の写真を見れば明らかなように、象の四肢足裏は、かかとを含めてまっ平らな広い足底の「扁平足」である。
7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)
足趺すなわち足の甲が亀の背のように厚く盛り上がっている。
これは、その事実関係に気付いた時には、声にならない声で「あっ!」と叫んだものだが、象の足のつま先を前方から見た時、その中指の爪を真ん中に、人差し指と薬指の爪を左右に配置し、親指と小指の爪を後部に配した姿が、亀の甲羅から首・手足が出る姿と見事に重なり合うのだ。
つまり、中指のつめが首であり、その左右の爪が両前足になる。これは画像を見ると一目瞭然なので確認して欲しい。
上の写真で、つま先中央(中指)の爪が首、その左右が前足、左右後列が後ろ足、そして足の甲高を甲羅と見れば、それはまさしく亀の形をしている。
Samarashingeさんより
上は逆アングルから見た象の足先。古代インド人の気持ちになって見つめてみよう。
9. 正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)
正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
これは少なからず説明を要するのだが、象の形態・生態上の最も顕著な特徴は、と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか?
童謡に「ゾーウさん、ゾーウさん、お~鼻が長いのね~♪」とある様に、象の第一の特徴とは、まず他の動物に類を見ないその長い鼻である、と言うのは、現代人にとっても古代インド人にとっても自明の真理だっただろう。
そして象さんは、単に長い鼻を持っているだけではなく、その鼻を手の如くに操り、遠くに伸ばして鼻先を人間の手先のように器用に使って物を掴み、折り曲げ、ちぎり、食べ物を口元まで運んで、食事をするのだ。
象のその特徴的な鼻は、同時に人間にとっての手のはたらきをする。
更に一本しかない鼻を左右に振り分けて、例えば左半身に水をかける時は左に首を振って鼻先から水を飛ばし、右半身に水をかける時は首を右に振って水を飛ばす事から、一本の鼻を二本の手のように働かさせる事ができる。
象はもちろん、四足の動物として古代インド人によって分類されていた。しかし本来『手』を持っていない象において、人間の手そのもののはたらきをするのが、その長い鼻であった訳だ。
その鼻は、象なりに「気を付け」の姿勢を取って正立した時、その前肢の膝に届く以上の長さを持っていた。これが、「正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い」と言う言葉の真意だったと思われる。
笑ったぞう・散歩日和さんより
上はほぼ?正立した象。右前脚の折っている部分がおそらく膝。かなり下方にある。その鼻先(指先)は、優に膝をカバーしている。
象の鼻を『手』とする表現は古代インドの諸文献に散見する。例えばヴィシュディ・マッガの中にもあるので、興味のある方はご確認ください。
清浄道論 正田大観訳 PDFより
象の鼻は人間の手の様に器用に動き働く。その普遍的な心象が理解されるだろうか。
20. 大直身相(だいじきしんそう)
身体が広大端正で比類がない。
これは説明の要がないだろう。象と言うのは古代インド人にとっても、動物界随一の比類なき巨大な身体をもって知られていた。
28. 梵声相(ぼんじょうそう)
声は清浄で、聞く者をして得益無量ならしめ、しかも遠くまで聞える。
声が「清浄」である、というその原語は「ブラフマー」であり、ここではブラフマー神の声の様に偉大である、と訳すべきだろう。象のいななき声が動物界でも類を見ない独特の迫力を持っている事は、現代人の我々にも容易に理解できる。
擬音化すればいわゆる『パオ~』という大音声のあのトランペット音は、いつの時代でも人々の、文字通り耳目を集めずにはいられないのだ(鶴の一声ならぬブラフマー象の一声)。
しかしそれは人間達にとってだけではなく、実は同じ草食の被食動物(肉食動物に狙われる動物)にとっても、重要な意味を持っていたという。
象は、様々な優れた資質をもって知られている。
その身体の大きさから目線が高い事はもちろんだが、実は象の視力はそれほど優れてはいないそうだ。替わりにその嗅覚と聴覚は非常に優れていて、脳の40%の機能は嗅覚に占められており、また40㎞離れた個体どうしで、低周波音を通じた交信ができるらしい。
そのような優れた知覚能力を持った象が、野生状態にある時には真っ先にライオンなどの捕食者を察知し、警戒のいななき音を立てる事によって、群れ内の仲間象だけではなく、周囲にいる全ての象群に、更には全ての草食動物に警報を発して、その危険から避難させる、などと言う働きを担っていた。
もちろん、古代インドにおいて、象の調御に携わる象使いの人々を中心に、それら象の優れた能力は多くの人々によって一般常識として知られていて、その事が、ブッダの優れた話術と音声、更にはマーラの危険から人々を安全な境地(悟り)へと避難誘導すると言う働きが重ね合わされて、上記の梵声相が設定されたのだろう。
以上が『仏の32相』についての私なりの再解釈なのだが、どうだろうか。ここから更に、仏の32相を瞑想実践と絡めて深読みしていく。
象は人間から何かを与えられれば、まず最初にその特異な鼻を伸ばして、その鼻先で「触知」する。もちろんその時には嗅覚も大いに働いているのだろうが、客観的に人々の眼で確認できる事実とは、まるで指先の様に器用に動く鼻先による触知に他ならないだろう。
その事が、アナパナ・サティの入門の基礎である、鼻先で「触覚的に」呼吸に気付く、と言う事と、(牛の急所が鼻である事とは別に)重ね合わされていた可能性がある。
一方で、象はその長い鼻の先から水を吸い込み、それを噴き出してシャワーを浴びたりする。その時には水しぶきと共に、強烈な鼻息が観察できる。
後段で改めて取り上げたいが、須弥山島の外輪山に『象鼻山』というのがあるのだが、これは恐らく、瞑想実践と深い関わりを持った様々な『意味』を担っていたと考えられる。
次に、象の形態と生態(立ち居振る舞い)の中で、もうひとつ突出したものにその巨大な耳をパタパタと良く動かす、と言う事が上げられる。
これは、科学的には聴覚よりもむしろ体温調節に深く関わっているらしいが、古代インド人の眼にはどう映っていただろうか。
象がその聴覚において大変敏感で神経質である、と言う事は、身近に接している古代インド人にとっては一般常識だった事だろう。
象と言うものは鼻の動物であると同時に、耳の動物であった。
この事は、象使いがその操縦意思を耳たぶの裏において足先で伝える、と言う事とは別に、人々にとっては自明の事実であり、同時に、ブッダの説法を聴聞する修行僧の心象風景の中では、瞑想修行の実践と深く重ね合わされて、理解されたはずだ。
これは、先に紹介した象の足に関する仏の32相についても同様だ。
象の足先だけでわざわざ足の裏と踵と甲の3項目を立てている事からも明らかなように、古代インドの原始仏教徒たちは、象の足と言うものにも特別な思い入れを持っていた。
その事は、以下の引用に見られるように、パーリ経典の随所に表れている。
「托鉢修行者らよ、たとえば全ての歩行する生物の様々な足跡は、象の足跡に収まる。それらの足跡のうち、象のものが最高であると言われるのは、その大きさのせいである。
このように托鉢修行者らよ。実に、勤勉から派生する勤勉の類に含まれるすべての善い性質の内、勤勉が最高であると説かれる」
~春秋社 原始仏典Ⅱ 第6巻 相応部経典 第5集 大いなる集 P67より引用
足跡とは足の裏の陰刻だ。つまり、仏の32相が象の偏平足を現していたとして、その広大扁平さが刻まれたのが、象の足跡になる。
これも鼻や耳と同様に、私の見立てでは瞑想実践の機微とリアルに重ね合わされていた可能性が高い。その証拠に、上記『大いなる集P67』引用の続きには、偉大な象の足跡になぞらえた『最高である勤勉』について、こう書かれている。
「托鉢修行者が勤勉な場合、この事が期待される。かれは、この五つの働き(五力)を修行し、五つの働きを繰り返し修行するだろう。
~托鉢修行者が、遠ざかり離れる事に基づき、欲を離れる事に基づき、抑止に基づき、
・煩悩を捨て去る事に向かう信仰する働き(信力)
・勇気を持って励む働き(精進力)
・記憶する事ができる働き(念力)
・精神集中ができる働き(定力)
・真実を知る働き(慧力)を修める」同要約引用
念力とはお決まりの誤訳で記憶の力と訳されているが、もちろんサティの力、つまり気づきの力だ。
これら、信と精進とサティとサマディとパンニャの優越性が、象の足跡の偉大さと重ね合わされていた事は、象の足跡やそれを刻む『足の運び』、更には象それ自体の在り様が、具体的かつ実体的に、瞑想実践と切実に重ね合わされていた事の表れかと想定される。
ここでは、先に指摘した象の優れた聴覚に、象の足が深く関わっている事が重要な意味を持ってくる。
それはもちろん、漢訳仏教では経行(きんひん)と呼び習わされているウォーキング・メディテーションとの重ね合わせだ。
以下に、実際に象がどのように足を運んで、大いなる足跡を刻んでいくのかを見てみよう。
Elephant Ride of Thekkady...KERALA
動画を一見して分かるように、平常時の象の足の運びとは、非常にゆったりとした注意深いものだ。
これはジャイアント馬場など身体の大きな個体が、その動きにおいて一般的にスローモーになる、と言う事もあるかも知れないが、それだけではない。
調べてみると、象の足の裏は非常に敏感で、足の裏を高性能の集音・聴音器として、地面からの音波、特に低周波音を耳へと伝えているらしい。
以下、象の長距離コミュニケーション:坂本龍一のELEPHANTISMより引用。(このページ全体がとても興味深い)
象が発する低周波の鳴き声は驚くべき強さで、最高で112デシベルぐらいある。この鳴き声は最大で10Km先まで届いたこともある。周囲の環境さえ整えば、10Km先の象ともコミュニケーションをとることができるのだ。ただし、個別の声の識別となると2Kmぐらい。
それに加えて、象は足を通して低周波をキャッチすることができることも、最近発見された。ゾウの足の裏は非常に繊細にできていて、そこからの刺激が耳まで伝達される。かれらはこの音を、30Km~40Km離れたところでもキャッチすることができる。
この領域は、まだ研究が始められたばかりだが、雷の音をキャッチしたり、こちらでは雨が降っていると認知できるように、40Km離れたゾウの存在も認識できるのではないかと考えられている。
何とも凄い話だが、実際に近年起こった印度洋の大津波の時には、地震や津波に伴う低周波音を象が敏感に察知して、津波が沿岸に到達する遥か以前に内陸や高台に逃げだして、難を逃れたという逸話が語られている。
もちろん、古代インド人が低周波音だとか何だとか、そこまで科学的な認識を持っていた訳ではないだろう。
しかし現代日本人である私たちとは比べ物にならないほど象と身近に共生していた彼らが、その足をゆったりと運ぶ姿をはじめとした象の立ち居振る舞い全体に、強烈なまでの『サティ』を本能的に感じ取っていた事は十分に考えられる。
「象が深いサティと共にその歩みを進めるように、正にそのように、修行僧たちよ、汝らも注意深く足の(裏の)感覚に気付きながら、その歩みを進めなさい」
それが、パーリ経典の『行間』にこめられたブッダの真意であり、その真意を、もちろん聴聞する仏弟子たちもまた心象風景として共有できていた。
だからこそ、仏の32相には象の足に関する重ね合わせが3項も繰り返され、そしてパーリ経典には偉大なる象の足跡を最高の勤勉(サティを含む瞑想修行の五力)と重ねる記述がある。
そのように私は、理解している。
更に、象や馬などの動物を調教するにあたって、最初に習得させる技能が、単純な歩行、つまり人間の指示通りに歩く事である、と言う事実もまた、経行修行と重ね合わされていたかも知れない。
この点に関しては、“馬の調御と仏の32相”と言うテーマで、次回以降に詳述する予定だ。
仏の32相において、『象』と言う明言がない項目に関しても、実は象の身体的特徴に重ね合わさる『相』が少なからず存在し、彼らが持つ様々な神秘的とも言える能力やネイチャーが、瞑想実践における『気づき=サティ』のイメージと重ね合わされていた。
そこで思い出されるのが、ゴータマ・ブッダがパーリ経典の少なからぬ箇所で “最上のナーガ(象)” と讃えられていた事実だ。これは明らかに、「仏の32相」中の象の特徴と表裏一体である可能性が高い。
そこで以下に、少し長いがその典型的な文言を『仏弟子の告白』から引用していきたい。
ウダーイン長老の16の詩句、全文
689:人間たるものである(正しくさとった人=ブッダ)は、自らを制し、心を統一し、ブラフマンの道においてふるまい、心のやすらぎを楽しんでいる。
690:一切の事象の彼岸に到達した人(ブッダ)を、人々が敬礼し、神々でさえも敬礼するということを、私は真人(アラハット)から聞いた。
691:一切の束縛を超越し、(煩悩の)林から林(煩悩)のない境地に到達し、もろもろの情欲から離脱することを楽しんでいる。――岩山(の金鉱)から(精錬されて)作られた黄金のごとくに。
692:かのナーガ(象=ブッダ)は他のものどもに打ち克って輝く。――ヒマラヤ山が他の山々に打ち克って輝くように。「ナーガ」と名付けられるあらゆる者のうちで、彼こそが真にその名にふさわしい、無上の者である。
693:わたしは、そなたたちのために、ナーガを褒め称えよう。彼はいかなる罪をもつくらない。ナーガの前の両足は柔和と不傷害とである。
694:ナーガの他の両足は、気をつけている事と、はっきりと注意していることである。偉大なるナーガは、信という鼻を持ち、平静という白い牙を持っている。
695:かれの頸は、よく気をつける事である。かれの頭は、智慧である。鼻で嗅ぎ分けて慎重に考察する事は、真理を考察する事である。われは教えを母胎として、共住している。かれの尾は、別離して独りでいる事である。
696:かれは瞑想に沈潜し、息を吸い込む事を楽しみ、内的にも精神が統一されている。ナーガは、歩んでいく時にも、心が統一されている。ナーガは、立っている時にも、心が統一されている。
697:ナーガは、臥している時にも、心が統一されている。坐っている時にも、心が統一されている。ナーガは、どこにいても、自己を制している。これが、ナーガの完全な姿である。
698:かれは、罪にならないものを受用し、罪になるものを受用しない。食物と衣服とを得て、貯えられたものを受用するのを避けている。
699:微細なものであろうとも、粗大なものであろうとも、束縛や縛るもの全てを断ち切って、かれはどこに行こうとも、期待する事なしに行く。
700、701:白蓮華が、水の中に生じて成長するが、水に汚される事なく、芳香あり、麗しいように、ブッダは世間に生まれ、世間で暮らしているが、しかも世間に汚される事がない。――紅蓮華が水に汚される事がないように。
702:大きな火が燃え立っていても、薪がなくなると、消えてしまう。燃え残りがあっても、「火は消えた」と言われる。
703:その意味を明示するために、この譬喩が、もろもろの識者によって説かれた。偉大なるナーガたちは、ナーガによってナーガが説かれたのを知るであろう。
704:欲情を離れ、憎悪を離れ、迷妄を離れ、汚れなきものとなって、ナーガは身体を捨てて、汚れなく、円かな安らぎに入るであろう。
~以上引用終わり
この16句に及ぶウダーイン長老の言葉は、とても含蓄に富んだ美しい詩篇だ。ここでは、仏道修行に必要とされる能力やその結果としてのブッダの資質が、明らかに象の諸特徴と重ね合わされている。
多少長くなるが、以下に重要なところをかいつまんで見ていきたい。
689:正しくさとった人=ブッダは、
自らを制し、=戒
心を統一し、=定
ブラフマンの道においてふるまい、=智慧に基づいて生き、
心のやすらぎを楽しんでいる。=解脱の安らぎを楽しむ。691:一切の束縛を超越し、煩悩の林から林(煩悩)のない境地に到達し、=野生の象が住処である森や林から引き離され、人間の下で調御されるように、
もろもろの情欲の林(脳や身体?)から離脱することを楽しんでいる。=世俗的な欲動から離脱している。――岩山(の金鉱)から(精錬されて)作られた黄金のごとくに。=悪という不純を滅尽している。
692:かのナーガ(象=ブッダ)は他のものどもに打ち克って輝く。――ヒマラヤ山が他の山々に打ち克って輝くように。「ナーガ」と名付けられるあらゆる者のうちで、彼こそが真にその名にふさわしい、無上の者である。=ブッダはナーガ(象)と呼ばれる者たちの中で最上の者である。
最後の692で、ブッダとナーガ(象)との明らかな “重ね合わせ” が明示され始める。前半で紹介した仏の32相との絡みでは、ナーガ(象)であるブッダが、象の様な身体的特徴を持っているのは、ある意味ごく自然な当り前の事(!)なのだ。
もちろんそれらの身体的特徴は、本来的にはブッダの瞑想法、その実践メソッドと具体的かつ実体的に切実なまでの重ね合わせを伴っていたはずだ。
その事は以下に続く様々な詩句によって、より鮮明に提示されるだろう。
693:わたしは、そなたたちのために、ナーガを褒め称えよう。彼はいかなる罪をもつくらない。ナーガの前の両足は柔和と不傷害とである。
ナーガ、つまり象の前足は柔和と不傷害であるという、その心象風景はどのようなものだったのだろうか。この点については象の足というものの特性を知らなければ理解できないだろう。
象の足は、私たちのそれと違って、とても特殊な “つま先立ち” の構造を持っているのだ。
ネット検索より(リンクは消失):象の足の透過図。ピンクの部分が分厚い脂肪層
上図を見ると、象の足はつま先以外のほとんどの足底が脂肪層のクッションでできている事が分かる。
そのため、象はほとんど足音を立てずに静かに歩き、またたとえ象に踏まれたとしても、それがつま先以外なら、その優れたクッション性によって怪我をする事は少ないと言う。
象に関しては、Elephant Encyclopediaが非常に詳しいので是非参照して見て欲しい。
上記のウダーイン長老の言葉は、このような科学的な事実を、経験的観察事実として認識した上で、語られたと判断すべきだ。
象の “優しい” 足の裏は、ライオンの凶暴な爪先や馬の破壊力抜群な足蹴りなどと比べて、柔和と不傷害を象徴していた。
694:ナーガの他の両足は、気をつけている事と、はっきりと注意していることである。偉大なるナーガは、信という鼻を持ち、平静という白い牙を持っている。
ここから先は、いよいよ象と言う実存と仏道修行との重ね合わせが顕著になる。
象の他の両足、つまり後ろ足は “気をつけている事” と “はっきりと注意していること” である。これは先に説明した、象の足の歩みと『サティ(気づき)』がその心象において重ね合わされていた、という仮説に対応したものだ。
象という生き物は、常に周囲の様々な状況に気づいていてとても注意深く、用心深く、賢明である。このイメージはヒンドゥの象頭の神ガネーシャが智慧の象徴として崇め祀られている事とも対応する。
正にその注意深い象のように、深い気付きと共に立ち居振る舞い、歩みを進めている。それが仏道修行の理想的な姿=ブッダ、だったのだ。
「信という鼻を持ち、平静という白い牙(upekkhāsetadantavā)を持っている」
という一節に関しては、今後『瞑想実践ガイドしての須弥山』として移転投稿する予定の『七金山』との絡みからも注目される。
~以下フライング引用
そこで、以下のように須弥山の周囲を囲む七金山を地理的には手前から、七覚支を瞑想的には初段階から、それぞれ対応させて並べてみた。
サティ、念覚支 :持辺山Nemiṁdhara(車輪のリム)
ダンマを選ぶ・択法覚支:象鼻山Vinataka(法を嗅ぎわける賢い鼻?)
ヴィリヤ・精進覚支: 馬耳山Aśvakarṇa(馬車を曳く馬)
ピティ・喜覚支 : 善見山Sudarśana
パッサディ・軽安覚支 : 檐木山Khadiraka
サマディ・定覚支: 持軸山Īśādhara(馬車の車軸)
ウペッカー・捨覚支: 持双山Yugaṁdhara(馬車の軛)~以上引用終わり
これはYahooブログ「脳と心とブッダの覚り」2014年6月の投稿だが、この時はまだ “動物つながりから見た瞑想実践” という視点に思い至っておらず、上記の対応関係も、主にラタ車との絡みから見ていた。
もちろん、ラタ車を引くのは調御された動物なので、基本的な視点としては間違っていないのだが、いまいち突っ込みが甘かった事は否めない。
それはともかく、ここで注目すべきは、先の象の牙と対応していた平静=ウペッカー(捨)が、持双山Yugaṁdharaと重ねられている事だ。
当時「持双山」の日本語意訳は「馬車の軛(くびき)」としたが、これは本来ラタ車の車台と牽引動物を前後につなぐ二本の轅(ながえ)であり、それは確か、象の二本の牙に見立てられていたはずだ(うろ覚えだがウパニシャッド辺り…)。
これは後述するが、象鼻山、つまり象の鼻という明言が七金山に含まれる事も興味深い。同時に、馬耳山も存在する。これはラタ車を引く馬を調御する頭絡が、耳の周囲直近のうなじ革と額革で保持される、という事実からも気になる所だ。
また、冒頭の念覚支が車輪のリム(タイヤ)と対応しているが、タイヤとはラタ車において地面に接地する “足” であり、これは象や馬の調御で最初の課題となる “足の運び” との関連が指摘できるかも知れない。
再びウダーイン長老の言葉に耳を傾けよう。
695:かれの頸は、よく気をつける事である。かれの頭は、智慧である。鼻で嗅ぎ分けて慎重に考察する事は、真理を考察する事である。われは教えを母胎として、共住している。かれの尾は、別離して独りでいる事である。
象であるところのブッダの首が、“よく気をつける事” である。これは前に指摘した様に、象が主人である象使いを乗せるのがその『首』である、という事実に対応している。
頭は智慧、というのは、常識的な組み合わせだが、象の頭の大きさや脳の大きさ、あるいは額の急所(アジナー・チャクラ)との絡みも考えられる。
「鼻で嗅ぎ分けて慎重に考察する事は、真理を考察する事である」というのは、先の七金山との絡みで、
「ダンマを選ぶ・択法覚支:象鼻山Vinataka(法を嗅ぎわける賢い鼻?)」という重ね合わせが見られた事に完全に対応している。
696:かれは瞑想に沈潜し、息を吸い込む事を楽しみ、内的にも精神が統一されている。ナーガは、歩んでいく時にも、心が統一されている。ナーガは、立っている時にも、心が統一されている。
697:ナーガは、臥している時にも、心が統一されている。坐っている時にも、心が統一されている。ナーガは、どこにいても、自己を制している。これが、ナーガの完全な姿である。
息を吸い込む事を楽しみ、というのは、象が鼻の動物であり、その鼻息の荒さや活用の多様さ、これは水を鼻息で吸い上げ噴き出す、などと言う事から、息を吸い込むその吸引力によって物をつかむ、という事まで、象の生態は鼻の呼吸と顕著に結びついて、“それを象が楽しんで遊ぶ” 事と関係するだろう。
もちろん常に目に見える形で鼻呼吸と共にある象のそのような生態が、アナパナ・サティを常用し“楽しむ”というブッダの日常にかけてある。
だからこそ、象と重ね合わされたブッダは32相の中で、「膝まで届く長い手(鼻)」を持つ。
(これは後でまた考えたいが、この “顕著な鼻息” というのは、実は馬にも共通する事柄だろう)
内的にも歩んでいる時にも、立って、臥して、坐っている時にも、常に心が統一されている、というのは、良く調御されている象の外見的生態(身に付けた技能)を現すと同時に、もちろんブッダの常住坐臥の気づきと禅定の生活を重ねている。
703:その意味を明示するために、この譬喩が、もろもろの識者によって説かれた。偉大なるナーガたちは、ナーガによってナーガが説かれたのを知るであろう。
ここでは三回ナーガが繰り返されているが、これらの『ナーガ』は、それぞれ違う対象を差している。
『偉大なるナーガたち』とは、ウダーイン長老の話を聞いている比丘たち(比丘サンガ)を意味し、二番目のナーガは話者であるウダーイン長老によって、という意味であり、最後のナーガは、“偉大なるブッダ” を意味する。
つまり偉大なるナーガの集いである比丘たちに向かって、そのナーガの一員であるウダーイン長老が、無上のナーガ(比丘の最上首)であるブッダの徳性(特徴)について、ナーガ(象)の生態・形態に重ね合わせて、説き聞かせたのだ。
そう、ナーガ(象)という喩えはブッダただひとりだけを差すのではなく、ブッダと同じ修道生活を送る全ての比丘たちの総称でもあった。
何故なら、ブッダを含めたすべての修行僧たちが、正に調御される象のように、自らを律し、象が調御されるプロセスと重ねあわされる瞑想修行によって自らを調御しているからだ。
出家のサマナ比丘とは、全てが “調御されるべき / 調御された” ナーガ象であり、ブッダとは正に、すべての比丘が目指すべき “調御された象の完成形” (誉れある名象)にして、その調御法自体を弟子たちに伝授する事ができるプリサ・ダンマ・サーラティ(人間の調御師)だったのだ。
704:欲情を離れ、憎悪を離れ、迷妄を離れ、汚れなきものとなって、ナーガは身体を捨てて、汚れなく、円かな安らぎに入るであろう。
おそらくこの詩句は、ウダーイン長老の晩年に語られたもので、ここでのナーガとは彼自身をさすのだろう。
ブッダは、欲情=貪、憎悪=瞋、迷妄=痴を離れ、清浄なる者となってから、身体を捨てて涅槃に入った。正にそのように、師の歩んだ道をそのままに踏襲して、彼ウダーインもまた、遠からず涅槃に入るだろう、と結んでいる。
現代日本社会に生きる私たちには想像すらできない事だが、彼ら古代インド人にとって、象という生き物は偉大なるひとつの偶像であり伴侶だった。
競馬好きがハイセイコーやナリタブライアンやディープインパクトに熱狂し彼らを深く愛するように、その時代や地域を代表するような “名象” が世上では持て囃され、それら名象は、現代競馬の馬主やファンがチャンピオン馬を人生に欠かせないアイドルとしてパートナーとして愛し敬する様に、賛仰された。
そしてそれら象達と人間を強固に結び付ける事の出来る『調御のプロセス』に対する知識、と言うものもまた広く知れ渡っていた。
これら象と人間の濃密なパートナーシップを前提に、更にその上に、象の調御法と出家比丘の調御法の同一視があって初めて、パーリ経典における象と修行僧(ブッダ)との濃密な重ね合わせが成り立ち得た。
その結果としてブッダの超越性は、無上なるナーガ(象)と称えられ、ブッダが「無上なる象」と呼ばれたことのある種の “証し”として、仏の32相における象の諸特徴との重ね合わせが生まれた。
そのように理解して初めて、すべての文脈の辻褄が腑に落ちる気がするのだが、如何だろうか。
(本投稿はYahooブログ 2015/1/3「瞑想実践の科学 17:象の優れた特徴と仏の32相」と 2015/1/8「瞑想実践の科学 18:ナーガ(象)と呼ばれたブッダ」を統合の上加筆修正し移転したものです)