仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

煩悩の「密林」としての脳髄:瞑想実践の科学6の補遺

パーリ仏典において愛執・渇愛・妄執・煩悩・愛欲、であるところの “つる草” と喩えられているものとは、実は私たちの身体全身に “はびこって” いる血管ではなかったか?

それが前回までの論旨だった。

私たちの全身には、血管の網の目がはびこっており、特に煩悩・渇愛の “局所” において、その活動が盛んになった時には、その存在感が際立ってくる。

それもそのはず、それがどのようなものであれ、身体(心身)の活動が盛んならしめられる時、それを支えているのは、急増する血流によって供給される酸素と栄養だからだ。

そして、私たち現代人が、すでに煩悩が生起する現場として認識し得ている大脳の表面もまた、びっしりと動脈血管の網の目によって覆い尽くされており、古代インド人の求道者たちもその事実を知っていて、それを「煩悩・渇愛のつる草が網の目のように覆っている」、と喩えたのではないか。

つる草に覆われている “この世” とは、私たちが生を営むところのこの『身体』であり、中でもその焦点とは、六官・五蘊が集成し、煩悩渇愛が生起するところの脳髄だった。

以上の読み筋を前提に、さらにパーリ仏典に見られる比喩表現を読み解いて行きたい。今回は、正にその、六官・五蘊が集成するところの脳自身が持つ形態について考えていく。

パーリ仏典では、煩悩・渇愛・愛執・執着・情欲、などを譬えるのに、つる草以外にも様々な事物を重ね合わせている。中でもつる草との関連から重要なのが、“煩悩の林” だ。

仏弟子の告白

691 : 一切の束縛を超越し、煩悩の林から煩悩の林のない境地に到達し、もろもろの情欲から離脱する事を楽しんでいる。

真理のことば 第20章・道

283 : 一つの樹を伐るのではなくて、煩悩の林を伐れ。危険は林から生じる。煩悩の林とその下生えとを伐って、林からのがれた者となれ。修行僧らよ。

同 第26章・バラモン

394 : 愚者よ、螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。

~以上、岩波文庫刊、中村元訳より

煩悩の、内なる汚れとしての密林

古代インド人たる原始仏教徒たちは、これらの言葉の背後に、どのような心象風景を重ねていたのだろうか。

つる草の場合は、血管、という具体的な事物との切実なまでのリアルな重ね合わせが存在していた、という点について私は既に書いた。

ならばもちろん、この煩悩の『密林』にもそのような重ね合わせが、当然のごとくに存在しているはずなのだ。

そこで私は例によって、ネット上に散在している画像を精査して行った。焦点はもちろん、「脳髄」だ。

そして例によって、膨大なほとんどまったくの浪費に思える様な時間が過ぎた果てに、漸く一枚の画像に辿り着いたので、以下に掲載する。

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小脳の断面図(ネット上からの拝借だが、リンクは消失)

これは実は大脳ではなく、小脳なのだが、上の画像を見て、第一感、何を連想するだろう? 白い部分が幹・枝で、その周りには葉が茂っている様に見えないだろうか。

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Wikipediaより

それは、いちばん太い白い芯部を幹と見れば、一本の大木がのたくっている樹冠、と捉える事もできるし、あるいは、太い白い所を大地と見れば、沢山の木々が並んでいる “密林” のように、も見えないだろうか。

大脳の断面図を見ると、小脳ほどにはこのような樹状構造は視認できなかったが、基本的な構造は恐らく同じだろう(少なくとも古代インド人から見た時)。

私はすでに、大分以前から脳幹+大脳の姿を、一本の大樹、として古代インド人が重ね合わせていた、という可能性について指摘している。

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再掲:ベンガル菩提樹の大木と脳中枢

脳幹は文字通り樹の幹で、大脳は樹冠だという形態上の類似が明らかに存在したのだが、それが外観だけではなく、内部の構造においても、樹木や ‟叢林” とかさね合わせる事が可能だった訳だ。

この世の中には、沢山の「形の類型」が存在している。

例えば、上の小脳における樹状構造。肺胞の樹状構造、様々なサンゴの樹状構造、ある種の菌類の樹状構造、そして樹木自身の構造、これらまったく種も異なる生物間で、なぜその体制構造の類似が生まれるのか。

それは、第一には個体発生のメカニズムであり、根源的には系統発生のメカニズムであり、つまるところは生化学的・物理法則的なダルマ、をその前提条件にしているのだろうが、煩雑になるのでここでは割愛する。

ここで重要なのは、脳髄の基本構造が『樹状構造』と言えるものであり、それは大脳を頭蓋から取り出したり、あるいは小脳をスパッと切り分けたら、古代インド人にとっても、一目瞭然で視認可能であった、という事実だ。

この小脳に関しては日本語版Wikipediaに面白い記述がある。

小脳(しょうのう、英: cerebellum、ラテン語で「小さな脳」を意味する)は、脳の部位の名称。脳を背側から見たときに大脳の尾側に位置し、外観がカリフラワー状をし、脳幹の後ろの方からコブのように張り出した小さな器官である。

ここで「カリフラワー状」と説明しているのは、まさにその様な形の類似が明らかだからだろう。そしてカリフラワーとは太い茎の上に花蕾の樹冠が枝分かれしてこんもりと茂るもので、それは大樹のミニチュアだと言って良い。

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123RFより

 

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Radiopaedia.orgより

上の画像は大脳・脳幹を左右線で両断したものだが、これもカリフラワーとの類似が明らかだろう。それはつまり、脳幹部を幹とし大脳部を樹冠とした大樹のミニチュアだ。

脳幹と大脳をひっくるめて、脳髄の外観は一本の大樹に似ている。そして、脳髄の端に位置する小脳においては、その内部構造によって、樹木・密林との類似が著しい。

このように見てくると、パーリ仏典において “煩悩の林” “内なる汚れ(煩悩)の密林” と譬えられたのは、頭蓋の内なる脳髄そのものではなかったか、という想定が、真実味を増してくる。

そして、この仮説は、何よりも “愛執のつる草” としての血管との絡みで、高い整合性を持っている。

ブッダのことば:岩波文庫刊、中村元

271 : 貪欲嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いとの身の毛のよだつ事とは、自身から生ずる。諸々の妄想は自身から生じて心を放つ。――― あたかも子供らが鳥を放つように。

272 : それらは愛執から起こり、自身から現れる。あたかも榕樹(バニヤン)の新しい若木が枝から生ずるようなものである。ひろく諸々の欲望に執着している事は、あたかも蔓草が林の中に広がっているようなものである。

脳髄を煩悩・渇愛(汚れ)の叢林と喩えた時、その周りには、正に愛執・欲情のつる草に譬えられる血管がうねうねとはびこり広がっているからだ。

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再掲:大脳モデル外観

上の画像は右側面から見た大脳。右方が前頭葉、左下が小脳で、小脳にへばりつく白い部分が延髄から脊髄だが、煩悩の密林である脳髄の周りは、愛執・欲情のつる草である血管群によって広く覆われている。

ブッダの言葉272で譬えに使われたバニヤン樹を調べてみると、幹から出た無数の気根が地面にまで伸びて新たな幹となり、一本の大木でありながら、あたかも密林のように広がっていく、という性質を持っている事が分かる。

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Reiko015.blogより:バニヤン樹は一本の大樹でありながら密林の様相を示す

このような性質は、小脳に顕著に現れている様な、一本の大樹のようであり同時に密林である、“様に見える”、という脳髄のヴィジュアルと、見事に重なり合わないだろうか。

問題は古代インド人がこれら脳髄をスライスしたヴィジュアルを視認可能だったか、と言う点だ。これに関しては、ブッダの時代前後に知の爆発を起こしていたインド世界においては、世界の謎と人間存在の謎を「重ね合わせ」た上で、これら二つながらの謎を解き明かさんと積極的に人体解剖が行われていただろう事を既に指摘している。

しかしそれだけではなく、当時の社会では肉食と言うものが大いに行われており、動物の脳部位というものは極めて美味である(ブレイン・カリー!)事から、牛や馬、ヒツジなどの脳髄をスライスしその断面を視認する機会は腐るほどあったはずなのだ。

(もちろんバラモンの供犠祭においても動物の屠殺・解体、調理が広く行われており、脳部位が特定の祭祀儀軌と関連付けられていた可能性もある)

これら動物の脳は Cow Brain などでググって見ると確認可能だ。対身体サイズ比で大きさが違い脳幹の向きなどの形状も違うが、脳のいわゆる「脳らしい構造」はほとんど人間のそれと変わらない。

それら四つ足の生類における脳髄の構造、その知識は、そのまま二本足の生類である人間にも当てはめられただろう。

先に引用紹介したパーリ経典には面白い記述がある。

真理の言葉 第26章・バラモン

394 : 愚者よ、螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(汚れ)を蔵して外側だけを飾る。

ここではバラモン行者の特徴的な外観を引き合いに出し、「身体の外側だけ飾っても意味がない。汚れの密林は身体の中にあるのだから、それを何とかしろ」 と言っている事が明らかだろう。つまり、煩悩の密林は身体の内部に蔵されている。そして螺髪頭の内部にあるものこそが脳髄に他ならない。

ブッダのことば

271 : 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いとの身の毛のよだつ事とは、自身から生ずる。諸々の妄想は自身から生じて心を放つ。――あたかも子供らが鳥を放つように。

272 : それらは愛執から起こり、自身から現れる。あたかも榕樹(バニヤン)の新しい若木が枝から生ずるようなものである。ひろく諸々の欲望に執着している事は、あたかも蔓草が林の中に広がっているようなものである。

上の271詩節では、煩悩と嫌悪(貪瞋)は「自身から現れる」と言い、それが極めて「体感的」な「身の毛のよだち」と重ね合わされている。

そして続く272節では愛執がバニヤン若木(新芽)に喩えられ、それが林の中に広がる蔓草に喩えられる。そしてもちろん、先の文脈を踏襲すれば、これらの林や蔓草は身体の内部に蔵されているのだ。

真理のことば 第20章・道

283 : 一つの樹を伐るのではなくて、煩悩の林を伐れ。危険は林から生じる。煩悩の林とその下生えとを伐って、林からのがれた者となれ。修行僧らよ。

~以上、全て岩波文庫刊、中村元訳より

上の詩節で言う『煩悩の林』も、くどい様だがもちろん身体の内部に蔵されている。その林から逃れるという事は、畢竟『身体』存在そのものから逃れる=解脱する、事を意味するだろう。

その解脱が、瞑想実践によって初めて実現される以上、「煩悩の林とその下生えとを伐る」というその『作業』は、そのまま瞑想行中に経験される「主観的体感的な心象プロセス」に重なり合う、と言うのが私の読み筋だ。

つまりこれらは単なる文学的詩的な比喩表現に過ぎないものではなく、極めてリアルで体感的な瞑想実践上の重大局面について、「具体的」に語っているのだ、と。

 

※本投稿はYahooブログ 2014/9/11記事「瞑想実践の科学5煩悩の密林としての脳髄」を加筆修正の上移転したものです。

 

 


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