仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『真のバラモン』とゴータマ・ブッダ【後編】

前回の投稿では、絶対者Brahman梵天神Brahmāとの関係性に一応の決着をつけた後に、『真のバラモンブラーフマナ)』という表現あるいは概念について、ウパニシャッドとパーリ仏典の両面から迫ってみた。

そこでは『輪廻からの解脱』を巡って対照的な、大別すると三つのブラーフマナバラモンブラフマンを知る者)概念が存在する事を指摘した。

ヴェーダの言葉の知識(その威力=ブラフマン)を具えて、硬直化し肥大化した祭式のみにもっぱら専念する『祭式官僚ブラーフマナ』(含むバラモン階級者全般)」

「その様な哀れなバラモンに対する批判的な思弁と探求の中で想定された『不滅の(絶対者)ブラフマン』を知る(あるいはそれに到達する為の修行の道にある)ウパニシャッド的な『真のブラーフマナ』」

「パーリ経典に表された様な、ゴータマ・ブッダによって提示され体現された『真のブラーフマナ』」

上の1については現世的、つまり輪廻の内における様々な請願については叶える力を持っているかも知れないが、こと『輪廻からの解脱』についてはまったく無力であり、その無力性の根拠として「彼らが、彼らよりも上位に位置する『絶対者ブラフマン』に対して、原理的に『命じる権能』を持ち合わせていない事を指摘した。

それに対して、ウパニシャッドとパーリ仏典における2と3の『真のブラーフマナ』は明確に『輪廻からの解脱』に焦点を当て、それを可能にする方途であり、修行道である、と位置付け、この両者の心的ベクトルはほとんどイコールではないのかと問題提起した。

もちろん特に前二者の違いについては完全に二分できる訳でもなく、それぞれ個々のバラモン(祭官&求道者)においてそれぞれに異なっており、グラデーションがある。

例えば伝統的なバラモン祭官の中には、絶対者ブラフマンの境地へ、伝統的な祭式のみで到達できる、と主張する者もいたであろうし、あるいはまた、祭式と苦行とオームの念誦など適当に配分した行法に依ってそれに到達できると主張した者もあっただろう。

しかし、全体の概観として、1のブラーフマナと2のブラーフマナが決定的に対立していて、ブッダの主張した3のブラーフマナが2のそれに極めて近似的だったと言う事は間違いない。

この1と2の対立に関して、全く重なりあう記述をムンダカ・ウパニシャッドの中に見出したので以下に引用しよう。

ムンダカ・ウパニシャッド1-1 勝劣二種の学道

4:彼は説きぬ。「梵学者の教うるが如くんば、すべからず二種の学道のあるを知るべし。二種の学道とは勝学道劣学道となり。

5:このうち劣学道とはリグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ、発音学、儀礼学、文法学、語源学、韻律学、占星術なり。

次に勝学道とはこの不滅なるものが会得せらるる所以の道なり。

 

1-2 祭祀道の果報の限界

:かの十八の祭資は祭祀道の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものと言われる。かくの如きのものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ

愚昧の輩無知(Avidya)なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は欲念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界より惨めな姿もて退堕す。

10:迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。かれらは殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいは更に劣れる世界に入る。

ウパニシャッド:佐保田鶴治著 平河出版社 P250より  

ここでは冒頭、明らかに伝統的なバラモン祭官の祭式とそれのよって立つヴェーダの諸学問が劣学道とされ、『不滅なるものブラフマン)に至る道』が勝学道と称されている。

次の『祭祀道の形なせる十八の祭資』とは上を受け、伝統的なリグ、ヤジュル、サーマ、アタルヴァの四ヴェーダとそれに付随する諸文献に依拠した伝統的ないわゆるバラモン教の祭式を意味しており、このような劣学道は、先に私が列挙した三つのブラーフマナの内の『1祭式官僚ブラーフマナに全く対応するだろう。

これらバラモン祭官によって執り行われる祭儀(祭式)は低劣なもので、『勝学道』にあらず、それに気づく事のない者は無知(Avidya)『痴愚の輩』であり、輪廻生死を繰り返す、つまり輪廻からの解脱を得られない、と断言的に批判している。

その他にも祭祀主義者欲念に迷わされ真理を悟らざるが故に」「迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず」など、このような『1のバラモン祭官』が彼らの祭式よりも優れた『別の道』を知らずに、迷乱に陥り輪廻を繰り返す事が徹底的に指摘されている。

これは前回引用した

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド第三章第八節10

この不滅のものブラフマンを知ることなく、ガールギーよ、この世において供物を捧げ、祭祀を行い、苦行して数千年に及ぶとしても、その功徳は正に滅びるであろう。

この不滅のものを知ることなく、ガールギーよ、この世を去る者は、憐れむべき人である。しかし、この不滅のものを知って、ガールギーよ、この世を去る者は、真のバラモン(Sa Brāhmana)である。

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P231~より

という文脈に全く重なるものであり、この結論部はムンダカにおいては以下のように言及されている。

ムンダカ・ウパニシャッド1-2 勝道学への転向

11:およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシャ)の在ます処に入る。

12:真道人ありて、祭祀によりて獲たる種々の世界(果報)を観察し、無作(永遠)の世界は作為(祭祀)によりては獲られずとて深き失望に陥りなば、その事を明らかにせんが為に薪を手にして、博識にして梵学道に通じたる師を訪ぬべし。

13:さすれば、その賢者は己を訪える求道者がその心寂静にして、五官を制せるを見て、己がよりて以て真有なる不滅の真我を知れるに至れる梵学道を実の如くに説き明かさん。

ウパニシャッド:佐保田鶴治著 平河出版社 P250~より

ここでは先に出てきた『痴愚の輩』である『1のバラモン祭官』が知らない『勝学道』『梵学道』として明確にブラフマンを知る道』である事が示されており、それはイコール、『真のブラーフマナ』の道である事がこれまでの脈絡から明らかだろう。

また『梵学道』の原語はBrahma-vidyaであり、伝統的な祭官バラモンが振りかざす知識は実はAvidya(無知)そのものであり、ブラフマンを知ると知らぬのVidyaとAvidyaが、仏教の明知と無知に完全に対応する事はとても興味深い。

ここで「祭祀によりて獲たる種々の世界(果報)を観察し、無作(永遠)の世界は作為(祭祀)によりては獲られずとて深き失望に陥りなば、その事を明らかにせんが為に薪を手にして、博識にして梵学道に通じたる師を訪ぬ」という流れは、

『博識にして梵学道に通じたる師』をアーラーマ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタなどに比定すれば、そのまま沙門ゴータマ・シッダルターの姿に重なると見る事もできる。

このムンダカ・ウパニシャッドは、カタ・ウパニシャッドやシュヴェタシュヴァタラ・ウパニシャッドに続いて、ブッダの時代の後、に主に成立したとされており、ムンダカという語もまた、そもそも『剃髪者』を意味している。

一般に言われる様に、「ブッダの教えはブラフマンとの合一を説く教えではない」という立場に立てば、その点においてムンダカ説のアートマンブラフマン説への傾斜は仏教と著しく反する様に見えるが、私のこれまでの論述を前提に、ブッダと絶対者ブラフマンが等値されていた可能性を視野に入れると、このムンダカ説の内容は「心寂静にして、五官を制せる」など、極めて仏教と近似しており、その直接的な影響下に編纂された可能性さえ考えるべきだろう。

この五官・六官(感官)の制御についてはカタ・ウパニシャッドなどにも顕著に表れており、これが後のアシュタンガ(八支)・ヨーガにおける『プラティヤハーラ(制感)』へと続くのだが、これについては仏教における『六官の防護』と深く関っていると私は考えている(この点は回を改めて詳述検討)。

以上の様に見てくると、先に私が提示した三種の『ブラーフマナ』について、『1祭式官僚ブラーフマナ』と、ウパニシャッド的なブラフマンを探求する『2真のブラフマーナ』の対立構造が歴史的に存在していた事は、もはや明らかだろう。

両者の根本的な相違とは、絶対者ブラフマン(もしくはそれに等値されるブラフマン神)を知っているか否か、そして、それ故に、輪廻から解脱できるか否か、という点にある事になる。

そこで問題になるのがブッダの立ち位置だ。何故ならすでに見てきたように、ブッダもまた、『輪廻からの解脱』を説き『不死の境地』を説き、自らのその到達とそこへの道を、ウパニシャッドの求道者と同じように『真のブラーフマナ』の名において称揚し、彼の事を周囲のバラモンたちは『ブラフマンに等しい(Brahmasama)』と称えていたからだ。

彼は一体、『絶対者ブラフマンの解脱境』を前提に、その教えを説いたのだろうか? この問題に関しては様々なアプローチの方法があるが、ここまでの記述でひとつ気が付いた事があるので、まずその点について考えてみよう。

上のムンダカの一節「無作(永遠)の世界は作為(祭祀)によりては獲られず」において、無作(永遠)とはブラフマン(=アートマン)を意味し、それは作為であるところの『祭祀(祭式)』によっては得られないとしている。

私はこの、ブラフマンを暗喩する『無作』という言葉に引っかかったのだ。

同じような表現は、パーリ経典の一節としても存在しており、その存在の確認は、つい最近にも行われている、と。

そこで色々と思い当たる原典ソースを参照すると、前回引用紹介したダンマパダの『バラモン』章の冒頭にその記述を確認する事が出来た。

前回私はこの章からの引用を第二節(384)以降から始めているので、恐らくあの時点ではあまり重要性に気付かなかったのかも知れない。

第26章 バラモン

383 : バラモンよ、流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) 中村元訳 P64~より

この「バラモン章」は全体が『真のバラモン』たる事を説いているので、繰り返しになるが、作られざるものを知ることが『真のブラーフマナ』である、と言っている。

これの原語を当てて対照すると以下のようになる。

383 : バラモンよ、流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。

383. Chinda sotaṃ parakkamma, kāme panuda brāhmaṇa;
Saṅkhārānaṃ khayaṃ ñatvā, akataññūsi brāhmaṇa.

パーリ原文は、http://www.tipitaka.org/  Vipassana Research Instituteより。以下同

「作られざるもの=akata」はkataにaが付いた否定形なので、その意味を調べると

Kata (& sometimes kaṭa) [pp. of karoti] done, worked, made.

its original meaning of "built, prepared, worked out"

The Pali Text Society's Pali-English dictionary より

であり、全て過去形(過去分詞?)になっており、『作られざるもの』という訳文を見ると、これは受動態なのだろうか。

次に先のムンダカの一節を原文と対照すると以下のようになる。

祭祀によりて獲たる種々の世界(果報)を観察し、無作(永遠)の世界は作為(祭祀)によりては獲られずとて深き失望に陥りなば、

parīksya lokān karmacitān brāhmano nirvedam āyān nāsty akrtah krtena

サンスクリット原語はThe Principal Upanishad:P678より

上の全文を対照するだけの語学力は私にはないのだが、当該のキーワードである無作(akrtah)作為(krtena)はそれぞれ当てはめる事ができた。

ここで中心となる語はkrtaでありパーリ語kataに相当し、akrtahはその否定形になる。しかもkrtaというのはkataと同様に過去形(過去分詞?)のようであった。

ここでひとつ重要になるのが、果たしてパーリ語のkataサンスクリットのkrtaが同義であるか、という点だろう。

それについては、これもまた私の能力では即断はできないのだが、色々とネット上の辞書を調べていくと(あくまでも感触に過ぎないのだが)どうやら、これらの単語は同義の関連した語集団に属し、それはkarmaやkammaともつながり、その背後には祭祀行為、という心象が存在する様にも見える。

サンスクリットのkrtenaが作為と訳され括弧して『祭祀』とされていたのは、その様な背景心象を忠実に訳した結果なのだろう。

ここで本稿の主旨に合わせて、私なりに分かり易くこの一節を訳せば、

「決して作られ得ないもの(絶対者ブラフマン、は作られたもの(祭祀)によっては得られない」(後者は敢えて過去形にした)。

と言う事になる。そして次に先のパーリ・スッタの一節を拙訳アレンジすれば、

バラモン(真のブラーフマナブラフマンの探求者)よ、流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られ得ないもの(=ニルヴァーナブラフマン?)を知る者であれ」

と言う事になる。

ここで注意すべきは、上のパーリ・スッタにおいてニッバーナが『作られざるもの』、として提示された裏には、その前段の『流れ』『諸の欲望』『諸の現象』というものが『作られたもの』である、と言う含意があり、その様な作られたものとは対照的な反語として、ニッバーナ(作られざるもの)が置かれている、と言う事だろう。

この作られたもの、作られざるもの、という概念の背後には、一体どのような心象が横たわっているのだろうか?

特にサンスクリットのkrtaの場合、「कृत kṛtaとअकृत akṛta」として「 done(made) and not done(made)」という形のひとつの成語になっているようで、何やら芳しい匂いがしてくるのだが、ここではこれ以上立ち入らない。

ただひとつ、重要な観点があって、それは、作られたもの(作られるもの)が存在する場合は、必ずそこには『作者』が存在するだろう、という想定だ。どうだろう、よく考えて欲しい。

仮に作者が想定されていないとしたら、その様な事物に対して『作られたもの』という定義は適当だろうか、あるいは可能だろうか? 私はここで原語の詳細なニュアンスにまで立ち入って論ずるだけの能力はないが、単純に日常の日本語として考えてみてほしい。

そこで私が思い至ったのが、そもそも絶対者ブラフマンとはその性格のひとつとして『創造者』という役割を当てられていた、という事実だ。

そして彼は、同時に祭祀における言葉の呪の力の本源的な『作者』であり統括主権者でもあった、という点は、前回指摘した通りだ。

ここでこれまで『作る』という漢字を当てていたものを『創る』に替えてみれば、分かり易く全ての筋が通るかも知れない。

何故ブラフマンを称して『作られないもの』と言い得るのか。それは彼こそが世界・宇宙の原初の一者であり、全ては彼から始まる唯一絶対の創造主であるからに他ならない。

つまり、創造者であるブラフマンは、被造物である『祭祀(祭式)』によっては得られない、と。これは前回指摘した様に、単純なヒエラルキーの問題として理解すれば分かり易い。

祭祀はその上位存在である絶対者ブラフマン、すなわち言葉の呪の力を統括する最高主権者であり同時に全宇宙の創造主に対して、(その門戸を開くよう)命じる権能を持ち合わせていない。

そしてこの創造者としてのブラフマン原始仏教の原心象においても暗黙の裡に想定されていた、と仮定した場合、先のダンマパダ・バラモン章:383節における『流れ』『諸の欲望』『諸の現象』はすべて『被造世界(いわゆる一切世界)』であり、その中に惑乱し夢中になっている限り、その本源たる『創られざる者(訳出ではニッバーナだが)』を知ることはできない。

もう一度念を押しておくが、ウパニシャッド(あるいは仏教をも含む)で言う所の『一切世界』とは作られた(創造された)『被造世界』であり、ブラフマンとはそれを創造した原初の独一の主宰者であり、だからこそ彼は『作られざるもの』と称される。

この『作られざるもの』は別の言い方をすれば『自ら生じたもの』であり、インド語ではスワヤンブー(Svayambhu=Self-manifested)としてブラフマンに対する神秘的な呼称として定型化されている。

何故なら彼は原初の独一の主宰者であり、彼以前には誰もおらず、それでも彼が存在していたのならば、それは誰にも作られる事なく自ら生じる以外にあり得ないからだ。

(シャタパタ・ブラーフマナ曰く:Prajapati sprang from Brahman who is selfexistent 《Prajapatir brahmanah, brahma svayambhu》 )

言い方を変えれば、そのような自生者にして創造者たるブラフマンは完全なる独一の『能動者』であり、『作られる』という受動態で表現される事はあり得ない

ここでもう一度、くどいようだが先のパーリ・スッタ全文を見てみよう。

383 : バラモンよ、流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。

383. Chinda sotaṃ parakkamma, kāme panuda brāhmaṇa;
Saṅkhārānaṃ khayaṃ ñatvā, akataññūsi brāhmaṇa.

パーリ原文は、http://www.tipitaka.org/  Vipassana Research Instituteより。以下同

ここでは『流れ』『諸の欲望』『諸の現象』は全て『被造世界』であり、そこから去って、その消滅を知った時、すなわち『被造世界』から遠離しその消滅に至った時、『非被造世界(原訳ではニッバーナだが実は自生者ブラフマン)』を知る、と読めば、詰まる所、

「作られた世界から去りその消滅を知って、(その背後、あるいは ‟彼岸” にある)『作られざるもの(自生者ブラフマン)』を知る者であれ」

と言っている事になる。

再三繰り返しになるが、この「バラモン章」は真のバラモンがどのようなものであるかを集中的に纏めて説いた章であり、この冒頭383番の短い一節にも、ご丁寧にブラーフマナという言葉が二度も重ねてある。

そしてこのブラーフマナと言う語の原義は、『ブラフマンを知る者』であり、これまでの本稿の論旨に従えば、このブラフマンとは祭式の言葉の呪の力ではなく、その背後にあって全てを統括する主宰者であるブラフマンである可能性が高い。

ここまで読み解けば、もはやこのバラモン章つまり『ブラーフマナ章』の開頭383節で言っている事は、先のムンダカ・ウパニシャッドで言っている主旨と、全く同じ文脈に乗っている、と受け取ることが可能ではないだろうか。

akataññūsi(作られざるものを知る)= brāhmaṇa(ブラフマン知る・者)

ゴータマ・ブッダはご存知の様にその言葉の巧みさ、正しさ、真実さ、を繰り返し称賛された説法の達人であった。その彼が、「akataññūsi(作られざるものを知る)brāhmaṇa」 とこの二つの語を連続して語った(と記録された)事にどのような意味があるのか。読者の皆さんには、とくとご賢察いただきたいと願っている。

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さて、次に取り上げるのは、同じようにウパニシャッドとパーリ経典に共通する、先に言及したkrtaとも関わるある文言についてだ。

前回私は、カウシータキ・ウパニシャッドの冒頭にある、最高天ブラフマンの世界(解脱の世界)に関する一連の内容を引用した。

その中にまた、パーリ経典にも随所に見られる概念が象徴的にかいま見られる気がしたのだ。そこで該当箇所をその前後と共に全文引用して見よう。

カウシータキ・ウパニシャッド 第一章

3:~このように知る者はこの世界に赴く。ブラフマンは彼を(迎えるために)言う。

「汝らはわが栄誉をもって馳せ迎えよ。彼はヴィジャラー河に到達した。彼はもはや老いる事はない

4:五百人のアプサラスたちが彼を迎えにゆく。百人は華鬘を手にし、百人は香油膏を手にし、百人は白粉を手にし、百人は衣裳を携え、百人は果物を手にし、ブラフマン(男性神)の装飾品で彼を飾る。

ブラフマンの装飾品で飾られた彼は、ブラフマン(宇宙の最高原理)を知る者となり、彼はブラフマンに向かって進む。

彼はアーラ湖に達し、それを意(思考力)によって越える。そこに到達しても確信の無いものは湖中に沈む

彼はイェシュティハ瞬時に至る。それは彼から走り逃げる。

彼はヴィジャラー河に至る。彼はただ意によってそれを越える。その時、彼は善悪二つの業を振るい落とす

彼の愛する親族がその善業を受け、彼の愛しない親族がその悪業を受ける。

あたかも車に乗って走らせる者が車の両輪を眼下に見るように、彼はその様に昼夜を眼下に見、そのように善悪二つの業と一切の相対を見下ろす。

彼は善業を離れ、悪業を離れブラフマンを知る者となり、ブラフマンに向かって進む。

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P10~ より

上の重要部分を、サンスクリット原語で対照すると以下のようになる。

彼はヴィジャラー河に至る。彼はただ意によってそれを越える。その時、彼は善悪二つの業を振るい落とす。

vijarām nadīm tām manasaivātyeti, tat-sukrta-duskrte dhunute vā, 

 

彼の愛する親族がその善業を受け、彼の愛しない親族がその悪業を受ける。

tasya priyā jñātayah sukrtam upayanty apriyā duskrtam

 

あたかも車に乗って走らせる者が車の両輪を眼下に見るように、彼はその様に昼夜を眼下に見、そのように善悪二つの業と一切の相対を見下ろす

tad yathā rathena dhāvayan ratha-cakre paryavek-setaivam aho-rātre paryaveksetaivam sukrta-duskrte sarvāni ca dvandvāni,

 

彼は善業を離れ、悪業を離れブラフマンを知る者となり、ブラフマンに向かって進む。

sa esa visukrto viduskrto brahma-vidvān brahmaivā-bhipraiti.

 

サンスクリット原語はThe Principal Upanishad:P757より

よく見ると、先ほど『作られた』(あるいは祭祀)、『作られなかった』という文脈で登場したkrtaがここでは『業』という意味で登場している。これは『行為』で英語で言えば Done(Made)=為された・作られた、になるだろう。

興味のある方は上の内容を是非、熟読して頂きたい。ここには大変重要かつ象徴的なイメージが溢れている。第一にそれは湖や川を『渡る』という心象だ。

彼(死者の魂)は神道と呼ばれる死後の道行きを進み、最初に月と言う天界への門を通過し、アグニの世界、ヴァーユの世界、ヴァルナの世界、アーディトヤの世界、インドラの世界、プラジャー・パティの世界を順次(おそらく下から上へと)通過し、最終的にブラフマンの世界に到る。

そこから上の引用部は始まっている。

そこで迎えるアプサラスによってブラフマンの装飾を施された彼は、まずアーラ湖に到り、‟それを越える”。つまり、アーラ湖という越えがたき『水の遮断帯』を越える。これは確信の無いものは渡る事が出来ずに沈む、と言われる難関だが、彼は意の力によってこれを越える。

更に再びヴィジャラー河という水の流れる遮断帯に至る。彼はただ意によってそれを越える。その時、彼は善悪二つの業を振るい落とす

それが湖であれ川であれ、それを越えて渡る、と言う事は、つまりこちらの岸から向こうの岸に渡る事を意味する。つまりこの時、彼は彼岸に渡った。そして彼岸に渡る事に拠って、善悪の業が振るい落とされた

彼岸に渡るという表現は、ここでいちいち文例を上げる必要はないだろう。それが仏教において覚りや解脱を意味するもっとも重要なメタファーである事は、およそ仏教徒を自称する者ならば誰でもが知っている。

そこでここでは次に、善悪の業を振るい落とす、というイメージと酷似したものが、パーリ経典においても共有されている事を文例と共に見て行きたい。

スッタニパータ

520 平安に帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。

526 内的と外的と二つながらの白いものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越せる人、──このような人はまさにその故に<賢者>と呼ばれる。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村元訳 より(私の手元にある1982年第30刷)

これのパーリ原文を引くと以下のようになる。

525(520). ‘‘Samitāvi pahāya puññapāpa, virajo ñatvā imaṃ parañca lokaṃ;
Jātimaraṇaṃ upātivatto, samaṇo tādi pavuccate tathattā.

531(526). ‘‘Dubhayāni viceyya paṇḍarāni, ajjhattaṃ bahiddhā ca suddhipañño;
Kaṇhaṃ sukkaṃ upātivatto, paṇḍito tādi pavuccate tathattā.

552(547). ‘‘Puṇḍarīkaṃ yathā vaggu, toye na upalimpati
Evaṃ puññe ca pāpe ca, ubhaye tvaṃ na limpasi;
Pāde vīra pasārehi, sabhiyo vandati satthuno’’ti.

http://www.tipitaka.org/  Vipassana Research Instituteより

念のため、「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」サイトさんから対訳を引用すると以下のようになる。

525(520).

Samitāvi      pahāya     puññapāpa,
静まった者となり  捨て    善と悪を

virajo    ñatvā   imaṃ  parañca  lokaṃ;
塵を離れ  知って  この  あの・と 世を

Jātimaraṇaṃ     upātivatto,
生と死を      越えて行く

samaṇo   tādi        pavuccate   tathattā.
沙門と    そのような人が  言われる     それ故に

<520>困ったときはダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く より

 

531(526)
Dubhayāni   viceyya    paṇḍarāni,
両者の    考察して  白いものを

ajjhattaṃ   bahiddhā  ca     suddhipañño;
内の      外の    と  清らかな智慧あり

Kaṇhaṃ   sukkaṃ   upātivatto,
黒を     白を    越えて行く人

paṇḍito  tādi       pavuccate   tathattā.
賢者と  そのような人を  言う    それ故に

<526> 困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く より

 

552(547)

Puṇḍarīkaṃ   yathā   vaggu,
白蓮華が   ように   美しい

toye    na   upalimpati;
水中で  ない   汚され 

Evaṃ    puññe  ca   pāpe  ca,
そのように 善   と    悪    と

ubhaye    tvaṃ     na   limpasi;
両方で  あなたは ない   汚され

Pāde   vīra    pasārehi,
両足を   勇者よ  お伸ばし下さい

sabhiyo   vandati    satthuno’’ti.
サビヤは   礼拝します   先生に・と

<547> 困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く より

パーリ経典において『善悪』に相当する単語は、主にpuññapāpaṃである事が分かる。これはpuññaとpāpaに分ける事が出来、前者が善であり、後者が悪になる。

実はこのpuññapāpaサンスクリットpuṇyapāpaに相当し、これら二つの言葉は非常に宗教色が強いもので、特にその原心象として、「善い祭祀によって得られる良い効力(幸福という善き結果)」「悪い祭祀によって得られる悪い効力(不幸という悪しき結果)」というニュアンスを濃厚に保っている。

そしてこのpāpaこそが、仏典に多出しているパーピマント(悪魔=マーラ)の原意でもある。

以上を前提にカウシータキのブラフマン世界に戻ろう。

カウシータキにおけるブラフマンの世界描写において、sukrta(善業)とduskrte(悪業)を振り落とし離れる、という表現は、先に引用したムンダカ的な意味でkrtaを『祭祀』と読めば「善き祭祀行為(とその結果)と悪しき祭祀行為(とその結果)を振り落とし離れる」と読む事が出来る。

それが何を意味するのか。何故、ブラフマンの世界に入ってヴィジャラー河を越えると善悪の祭祀行為とその結果としての善悪業が無効化されるのかと言えば、ヴィジャラー河が『作られた世界(行為の世界)』と『作られなかった世界(無為の世界)』の境界線であり、以前にも書いたように、後者であるブラフマンの世界』が、バラモン祭官の祭式行為の威力の及ばない上位世界だからに他ならない。

バラモン祭官も、また彼らの執り行う祭式も、それらの効果が及ぶ世界も、共に絶対者(創造者)ブラフマンの被造物に過ぎず、ブラフマンの世界はそれらを超越している『圏外』である)

そして更に、パーリ経典において善悪を表すpuññapāpaṃもまた、本来は祭祀行為の結果として得られる善悪の果報、あるいはそれをもたらす『善悪の神的な威力』を含意するので、ここにウパニシャッド的な文脈と仏教的な文脈が見事に重なり合う事になる。

言っているニュアンスが、分かるだろうか?

この辺りは、そもそも何故、善業を行うと善き果報があり、悪業を行うと悪しき果報があるのかという、いわゆる『因果応報』の世界観の根底には『祭祀行為』が横たわっていた、という『歴史的事実』を理解しなければならないのだが、この点は煩雑になるので次回以降に委ねたい。

ここでは次に、このヴィジャラー河に至った者が「もはや老いる事はない」と言われたその心象世界を、パーリ経典との重なり合いにおいて見て行きたい。

スッタニパータ

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない

1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によって生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか? 先生!あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください」

1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者(vidvā)となって、苦しみを捨てるであろう。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り越えた』とわたくしは説く

1079 ナンダさんがいった、
「おおよそこれらの<道の人>・バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれるとも言います。先生! かれらはそれにもとづいてみずから制して修行しているのですが、はたして生と老衰とを乗り越えたのでしょうか?・・・・」

1080 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。これらの<道の人>・バラモンたちはすべて。(哲学的)見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守 ることによっても清浄になると説く。(そのほか)種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り越えたのではない、とわたしは言う」

1082 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっ かり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、 わたしは説くのである。

1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

 

彼岸に至る道の章:16学生の質問の結語

もしもこれらの質問の一つ一つの意義を知り理法を知り理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村元訳 より

これは一部の抜粋に過ぎず、これだけでも老衰を乗り越える、捨てる、それを越える、越えた彼岸に達する、という事が、仏道修行における成就を象徴するものだと言う事が良く分かるだろう。

大分端折ってしまったが、上のスッタニパータにおいて対話形式を採るものはすべてバラモン学生との対話であって、バラモン、すなわちブラーフマナ階級の学生がブッダに対して、真理を問い、ブッダがそれに答える、という形式をもっている。

まずは学生プンナカの問いを見ると、

「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか?」

というのは、明らかにこれまで私が繰り返ししてきた、『1祭式官僚バラモン』の行う祭祀によっては『生と老衰』は乗り越えられず(解脱に関して祭式は無効)、それらに代替するブッダの道について、問いかけている事になる。

当然、彼らの中ではそのような『生と老衰を越える道』について事前に概念化がされており、それについてわざわざ剃髪僧であるブッダにお伺いを立てている事になる。

次のナンダとの対話も同様に、

バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれるとも言います。かれらははたして生と老衰とを乗り越えたのでしょうか?」

として、明らかにバラモン学生であるナンダは既成のバラモンたちが奉ずるヴィディヤについて、生と老衰を越える(つまり解脱)に関しての有効性に疑問を呈している。

前段の『哲学的見解』というのは『2ウパニシャッド的なバラモン』であり、後段の『伝承の学問』は『1祭式官僚バラモン』、と見る事もできるだろう。

それに対するブッダの答えは、その様な見解や伝統を固持(誇示)しているバラモンたちの道ではなく、

「妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』」

というものであり、それこそが『ニッバーナ』だと言う。

その様なニッバーナに到達したブッダに対して、別の学生マーガは下の様に称賛しつつ質問する。

スッタニパータ

508:(マーガが言った)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によって人はみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊き師は、わたくしの<あかし>です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しい(Brahmasama)方だからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

同上より引用

 それに対してブッダは答える。

509:尊き師は答えた、マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」 

同上より引用

ここでは明らかにマーガは『解脱』という概念に続けて『みずから梵天界に至る』と言っていて、ブッダの事を梵天に等しい(Brahmasama)と称賛している。

つまり、彼はブッダの事を、「自ら梵天界に至って解脱した、ブラフマンに等しい者」、と認識している事になる。

その様にブラフマンに等しいと称賛される事を嘉納し、自らそれを体現すると自認し、その上で自らを『真のバラモンブラーフマナ=真にブラフマンを知る者)』と自称していたゴータマ・ブッダ

ちなみにカウシータキにおいて『ブラフマンを知る者』を意味するのはbrahma-vidvānであり、それはスッタニパータ1056における「この世で苦しみを捨てた智者(vidvā)」と言葉の上でも一致している。

このように見てくると、どうなのだろう。率直に言って、パーリ経典における『Brahman(Brahma)』及びブッダが自称する『真のバラモン(Brāhmana)』表記と言うものは、ウパニシャッドにおいて追求された絶対者(独一主宰者=創造者)ブラフマンの解脱境そのものであり、それを知りそれに至る事こそブッダの説いた『真のバラモン』の道であり、ニッバーナであり解脱ではなかったのだろうか?

私はどのような宗派にも属さず、またどのような学閥にも属さない一介のアマチュア・ブッダ・フォローワーに過ぎないのだが、これまでウパニシャッドとパーリ経典の相当量を読破してきた私の目から見て、ブッダヴェーダバラモン教ウパニシャッドといういわば今日ヒンドゥ正統派と称される流れの、ど真ん中における真実の改革者として、当時世間一般には評価されていたとしか、思えないのだが…。

(その後、ブッダに対する様々なアンチテーゼが沸き起こり、部派仏教ブッダの真意を失認した事もあって、仏教はヒンドゥの主流から謂わば『爪はじき』にされるが、水面下でブッダの叡智は脈々と生き続けた)

そしてその『真意』を理解する為に必須のカギとなるのが、今回チラリと登場してきた『祭祀』と『業(カルマ)』との関わりであり、これまでしばしば言及しながらも詳述できていない『内なる祭祀』という概念である、と私は考えている。

 

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本論考は、インド学・仏教学の専門教育は受けていない、いちブッダ・フォロワーの知的探求であり、すべてが現在進行形の過程であり暫定的な仮説に過ぎません。もし明らかな事実関係の誤認などがあれば、ご指摘いただけると嬉しいですし、またそれ以外でも真摯で建設的なコメントは賛否を問わず歓迎します

また、各著作物の引用については法的に許される常識的な範囲内で行っているつもりですが、もし著作権者並びに関係者の方より苦情や改善の要望があれば、真摯に受け止め適切に対応させていただきます

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