仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

アバターとマトリックスと麻原彰晃

2012年6月22日Yahooブログ『脳と心とブッダの覚り』投稿を若干の修正と共に移転》

 

最近ずーっと、オウム真理教事件について、考えている。

そのせいで、『脳と心とブッダの覚り』(Yahooブログ・タイトル)本文がなかなか書けない状態で内心忸怩たる思いがあるのだが、しかし、ブッダの覚りの原像について科学的に探求するためには、どうしてもオウムという現象を避けて通る訳にはいかない。

別の言い方をすれば、松本智津夫とシッダールタの瞑想体験がどのように違っていたかを論理的に追及する事が、ひいてはブッダの覚りというものを理解するための近道ともなるだろうと思っている。

今私がイメージしているのは、オウム真理教アバター帝国仮説だ。

映画アバターは、そのヴィジュアル的な美しさ、そこで展開される世界観の壮大さだけではなく、様々な意味で人間の『心』のあり方を描いた快作だったと私は思う。

主人公ジェイク・サリーは、急死した双子の兄トミーの代役として急遽惑星パンドラに派遣され、アバターの操縦者を務めることになった。元海兵隊員の彼は地球での戦闘で下半身不随の車いす生活者になっており、パンドラでの任務の報酬で足の治療を受けるつもりだった。しかしパンドラでは、アバターのボディを借りている間だけ、再び歩ける体を取り戻す事に気づく。wikipediaより

 

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松本智津夫麻原彰晃の関係性を理解するためには、映画アバターが参考になる

私はブルーレイを買って何回か見たので、それぞれのシーンをありありと思いだすことができるのだが、この現実において歩けない障碍者であるジェイクの境遇は、そのまま視覚障碍者として生きねばならなかった松本智津夫の境遇ではなかっただろうか。

彼にとって瞑想とは、歩けないジェイクがナヴィ族の身体に転送される事によって日常では考えられない全能性を味わえたのと同じような意味で、不自由な日常を超えた全能性へのワープを意味していたのではないだろうか。

瞑想というヴァーチャルなアバター世界の中では、彼は目の見えない障碍者ではない。超能力を獲得し、自由自在に空を飛び、恋をし(あるいはハーレムを持ち)、神と出会い、宇宙の究極の真理と融合する事さえ可能だった。

そこで高みを飛翔する彼にとって、彼を今まで見下してきた世間(健常者)というものは、はるかな下界を飛ぶこともできずに這い回る、下等動物に過ぎなかっただろう。

ジェイクがアバターへの転送装置から目覚めた瞬間、萎えた足を持つ障碍者である自分に直面し、ある種絶望的な表情を浮かべるシーンを、私はありありと思い出す事ができる。

アバター世界での日常が深まっていけばいくほど、彼は目覚めた時に現前する現実世界を嫌悪するようにすら、なっていった。そして最終的に、彼はアバター世界に完全移住する事を望んだのだ。

松本智津夫の場合、このプロセスは最初から一気に起きた。彼はまさにその『盲目性』によって、瞑想から覚めても、自覚的に醒めて現実を直視することができなかった。

瞑想中に経験されるヴァーチャルな『アバター世界』は、彼の意識の連続性の中では、常にリアルであり続けた。もちろんその背後に、現実逃避する自己欺瞞が潜在していたのは間違いないだろう。

彼は瞑想(迷想)し続ける限りにおいて、決して障碍者松本智津夫という現実に立ち返ることなく、尊師麻原彰晃であり続ける事ができたのだ。

そして、彼は救世主トゥルーク・マクト“なった”

彼のアイデンティティのよりどころとなる、彼にとって全世界である『惑星パンドラ』すなわちオウム帝国を守るために、強大な一般日本社会を相手取って、族長としての戦いを開始したのだ。

ここで唐突だが、では、シッダールタの場合はどうだったのだろうか。

彼は松本智津夫と同じような文脈で、『私はブッダになった』と自覚したのだろうか。
彼も松本智津夫と同じ様に、ブッダ(覚者)と言う超越的なアバターの夢を見ていたのだろうか。

それは違う。そう私は断言したい。

ヴァーチャルなアバター世界が展開するのは、常に辺縁系支配下にある大脳世界に他ならない(だからこそ、後述するマトリックス世界は人間の心を支配する事が出来る)。

そして結局、松本智津夫はどこまで行ってもそんな大脳世界に展開する“サンカーラの牢獄”の中で踊っているに過ぎなかった。

しかしブッダの瞑想法は、明確に原理的なファンクションとして、そのような大脳世界、すなわちサンカーラの牢獄からの離脱を志向するものなのだ。

ここで今度は、映画アバターと、映画マトリックスを重ねてみよう。ジェイクにとってアバター世界は“もう一つの現実”だったが、ネオにとってのマトリックス世界は、完全なフィクションだった。

トーマス・アンダーソンは、大手ソフトウェア会社のメタ・コーテックスに勤めるプログラマである。しかし、トーマスにはあらゆるコンピュータ犯罪を起こす天才クラッカー、ネオという、もう1つの顔があった。

ある夜、とある人物(モーフィアス)を探していたネオの所へ、その人物から「白ウサギに付いて行け」とのメッセージが届く。やがて、今まで現実と思っていた世界が、コンピュータの反乱によって作られた「仮想現実」であることを知らされたネオは、人類が養殖されている現実世界で、人工知能との戦いに巻き込まれていく。wikipediaより

 

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シッダールタの解脱をイメージするためには、映画マトリックスが参考になる

マトリックスの主人公トーマス(ネオ)は、ごく普通の日常を送っていたつもりが、ある日突然、それがマトリックスという『夢』に過ぎなかった事を知らされる。完全に目覚めた彼にとって、マトリックス世界とはモニター上に流れていく文字コードの羅列に過ぎない。

おそらくシッダールタは、その人生の初期に “モーフィアス” と出会ってしまった。誰もが何の疑問もなく適応してしまうこの“現実”に疑問を抱いてしまった。

そして紆余曲折を経てブッダガヤの菩提樹下に禅定した彼は、ついに、「現実」だと思っていた世界から “UNPLUGGED(アンプラグド)” され、それが瞬間瞬間に転変していく単なるマトリックスの羅列に過ぎない事を、その自己の心身と言うモニター上で観照(ヴィパッサナー)』したのだ。

この文脈で見れば、オウムの聖戦を遂行した麻原彰晃は、まさしくマトリックス世界(の内部)で超常能力を発揮して戦う救世主ネオに他ならない。ただ彼は、プラグドされた(目を閉じて眠った)まま見ているマトリックス世界(夢・幻想)とそこでの自分が、唯一リアルだと錯誤したままだった。

私はシッダールタの覚醒について、そして松本智津夫の独りよがりな『聖戦』について、現時点では以上の様に考えている。もちろん、アバターマトリックスは単なるたとえ話に過ぎない。

けれど、このたとえ話によって象徴される原理(ダルマ)さえわきまえていたら、21世紀の真摯な瞑想修行者が、麻原彰晃によって惑わされることは、もはやないだろう。ただし、彼もしくは彼女が進むべき道程は、とてつもなく険しい事が予想される。

全ての瞑想修行者は、常にアバターの誘惑』にさらされている。あらゆるインストール型宗教は、ある意味全てアバター世界の虜囚であると言う事も出来る(信仰によって生まれ変わった新しい自分!)。

本来アンインストール型の宗教であるはずのブッダの瞑想法が、インストール型に転じ、その実践者がアバター世界の虜囚に堕する危険は常に背中合わせに存在している。

映画マトリックスの中では、マトリックスマトリックスと認識しながら、なおマトリックス世界において成功者としての生を送ることを選ぶ、『裏切り者』すら登場した。

仏教が変質し続けたこの2500年の歴史とは、ブッダの教えがヴァーチャルなマトリックス世界化するプロセスだったと見る事も出来るだろう。

ブッダの道はとてつもなく厳しい。私は、ある種深い驚嘆と共に、そう思わずにはいられない、今日この頃なのだ。

(昨今の瞑想ブームの中で、「在家修行者でも朝晩の瞑想程度で簡単に解脱できる」かのような言質が散見されるが、本来の仏道修行とは決してその様な安易なものではない、とここでは強調しておこう)

松本智津夫は、今でもただひとり、アバター世界の夢に浸っている。彼は現実の牢獄の中で、ヴァーチャルなアバター世界の牢獄に住み続けている。彼が目覚める事は、おそらくもうないのだろう(実際にその後2018年7月、夢世界の中に閉じたまま、彼は他の弟子たちと共にあっさりと死刑執行された)。

オウム・麻原彰晃の迷走とその果てに起こした大惨事を思う時、瞑想という営為が持つ恐ろしい一面というものを、私は自覚せずにはいられない。すでに目覚めたブッダの指導を得られないこの世界で、果たして正しいブッダの瞑想法が可能なのか?

私が初めてテーラワーダ仏教のヴィパッサナー・メディテーションを経験した1995年から、すでに17年が経過した(現在、投稿記事移転作業をしている2019年5月時点で24年になる)。

その間、日本社会においてヴィパッサナー瞑想者は飛躍的にその数を増し、ブッダの瞑想法に関する情報も今や巷間にあふれている。

しかし、これは自戒も込めてだが、私たちが経験しているレベルは、果たしてオウムが経験していたレベルとどれだけ異なっているのだろうか?

全ての瞑想指導者、そして実践者は、自らを深く顧みなければならないと、強く思う。

このブログ記事を読んで何か感じる事があったならば、是非もう一度、アバターマトリックスという映画を観直してみて欲しい。

 

《以下の記述は2019年現在の追記》

最近魚川祐司氏のnoteによって、「なぜ今、仏教なのか ── 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学」という本の存在を知った。

その中で欧米の仏教信者たちが、やはり映画「マトリックス」におけるネオの覚醒をブッダの目覚め(及びそこからの教え)と重ね合わせていた、という事実を知る事が出来た。

本書の第1章で紹介されているとおり、「いわゆる西洋仏教の信者」たちは、『マトリックス』を見て、そこでネオのした選択が、西洋文化圏で育った自分たちが仏教を選んだ時にしたことと、同じ性質を持っていると感じた。だから、この映画をきっかけに、(仏教の)「法に帰依する」ことを意味する新しい表現、「赤い薬を飲んだ」が通用するようになったくらいである。

 「赤い薬」が飲みたくなる名著 より

この本自体はまだ未読なのだが、ある意味仏教の伝統を持たない欧米の仏教徒、あるいはブッダの瞑想法の真摯な実践者たちの方が、私たち伝統的に仏教に馴染んできた日本人よりも遥かにシビアに『仏教』と向き合っている、と言う事は言えるかも知れない。

ただ、これは私の個人的な感覚なのだが、彼ら欧米人の大多数は(デカルト的な伝統だろうか…)基本的に『エゴ(自我意識)』というものを絶対視する傾向が強く、ある程度深い瞑想経験を経てさえその呪縛から解放され難い様に見受けられる。

著者のロバート・ライト氏がどのような人物なのかは限られたレビューなどからだけでは把握しきれないが、機会があればこの本を読んで、最先端の仏教観とやらを瞥見してみたいと思っている(第一希望はもちろん図書館で(笑)。

 

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