仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

聖音オームと『母音』の関係

前回、私は以下のように書いた。

音節(シラブル)の中心となるのは母音だった。詠唱を構成する基本単位である音節の、さらに中心となるのが母音になる。

そしてオーム(AUM)が実際にヨーギやバラモンによって唱えられるのを聞くと「おぉーぅM」という感じになっていて、この最後のMはほとんど発音されずに単に口を閉じることによってM(鼻音)の形になる。

いわば音声の終止符程度の意味しかないことが分かる。

オームという音声の構成は、ほぼ純粋に母音の連なり(多重母音or長母音)である、という事をここで銘記しておきたい。そしてその音声は、特に喉の奥深くを強く響かせる感覚で発声される。

まるで全身が一本の共鳴管になったかのように

最初に考えて欲しいのだが、一体、私たち人間にとって、その発話能力において、母音とはどのような意味を持っているだろうか?

それはそもそも赤ん坊が最初に産声を上げる時、その発声の様子を見れば分かるだろう。赤ん坊の最初の発声というのは、そのほとんどが「あ」音を中心にした母音になっているのだ。


赤ん坊の産声の基本は「あ」音を「あ~」と伸ばす声

次に、赤ん坊が最初に「発話」する時、これも産声の延長線上であ音を中心にした母音が基本になっている。

赤ん坊の発話(喃語=Babbling)の基本は「あ」

人間の発声・発話能力の基本は母音である事が良く分かるだろう。そしてその母音のありようはきれいな単音と言うよりは、むしろ複雑微妙な『倍音性』が強い。

試みに、顔の力を抜いて自然に口を開けてみて欲しい。まるで鯉が口をパクパクさせるように、あごのちょうつがいをただ自然に開閉する感じで口をパクパクしてみる。

そしてパっと開いた状態で止めて、そのままの状態で声帯を震わせて声を出してみよう。その音は、『あ』の音になるはずだ。母音の内の他の『いうえお』の各音を最初の開口状態から出そうとすると、何らかの口の動きが必要になるだろう。

つまり人間の発話能力の基本はまず『あ』音が最初で、それを口全体の動きで改変する事によって、『いうえお』が発声されることが分かる。だから、赤ん坊の最初の発声は『あ~、あ~』が基本なのだ。

その「あ」音に唇の開閉を乗せると、ま(ma)、ぱ(pa)、ば(ba)、などの音声が出る。これら「ま、ぱ、ば」などは口内の各所を複雑に動かす必要がないので、赤ん坊にとって最も出しやすい音なのだ。先ほどの鯉の口ぱくそのままで、子音を乗せる事が出来る訳だ。

赤ん坊の喃語を聞いていると、そのほとんどが、あ音、あ音に単純な子音を乗せた「まぱば」、あ音を基本に口の形をランダムに改変しての「いうえお」音になる。これらの音声は、赤ん坊によって「自覚的」に出されている訳ではなく、いわば試みに操ってみたら自然とそういう音声が出てしまった、という次元の「自性」として出ている。

おさらいをすると、人間の発声能力の基本は「あ」音である。そのあ音を、唇や舌はほとんど使わずに、口内の形を変えるだけで変化させるのが「いうえお」の母音である。そして、それら五つの母音に、唇や舌やのどの奥など口の各所を微妙に調節して音を乗せるのが子音になる。

私は言語学者ではないので、あくまでもアバウトな話として、大体こんなところだと思う。

赤ん坊の発声は、いまだ言語としての意味を乗せていない純粋な音声だ。先ほど「自性」の発声と言ったが、以前私が書いた内容に即して言えば、それはファーム機能としての発声・発話である、と言えるだろう。

それは未だ言語野に言語ソフトがインストールされる以前の、ハード・ウェアにビルトインされたファーム・ウェアのファンクションであると。

(もちろんこの『ファームウェア性』の中には、無意識下の『呼吸』も含まれる)

これら喃語の原風景である「あ」音を中心とした母音性、その自性性、あるいはファームウェア性を象徴する事実がある。

私たちの日常生活で、「思わず」声を発してしまう瞬間というのを思い浮かべてみよう。

例えば、誰かに突然後ろから声をかけられたら「えっ」と振り向く。

街中で旧知の親友と偶然再会したら、「おぉ~」と驚き懐かしむ。

歩いていて対向する人とぶつかりそうになって「おっ」とよける。

熱いナベブタに触れてしまった時思わず「あっ」と声を上げる。

絶妙のダジャレに思わず「あはっ」と笑う。

子供が誰かに頭に来た時は「イィ~」と顔をゆがめる。

突然の腰痛に襲われた時には、思わず「うっ」「い(た)!」と身をかがめる。

そしてインド旅行中に激しい下痢に見舞われて「うぅ~」と苦しみ悶える。

あるいは戦場で決戦に突入する戦士たちが、思わず「ウォー」と雄たけびを上げる。

私が昔修行した合気道の稽古でも、気合は「えいっYあー」だった(ちょっと無理があるか(笑)

そしてもうひとつ、インド思想においてとても重要な場面がある。このブログの探求上これからも時に触れざるを得ない、とてもコアなシチュエーション。

それは、性的オーガズムにおいて、女性が思わず発してしまうあえぎ声だ。大体日本人は「あ~、あ~」のあ音が基本で時に「い~、い~」が混ざり、西洋人などは「Oh ! Oh !」のオ音が基本のようだが、まぁ、あまり厳密には考えないで欲しい(笑)。

これら音声が自ずから発せられてしまう場面を概観すると、ある共通する特徴が浮かび上がっては来ないだろうか。

それは、いわゆる自我意識によって営まれる思考活動以前の本能的なレベルで、何も考えずに反射的に、無心に、虚心に、一心に、夢中に、なった時に、「思わず」出てきてしまうのが、この母音である、と言う事だろう。

母音の発話は、日常的な自我意識以前の、「原意識」と密接に関わり合っている、という点を、是非覚えておきたい。

それは、未だ言語的な自我意識が発達していない最初期の赤ん坊の発話の基本が母音である、という事実と完全に対応している。

もちろん、これらの事実は、「何故オームという音節が聖なるブラフマンと同一視される聖音であったのか?」という問いに答えるための、重要なヒントになる。

前回、私はそれが天地の両輪の世界が神なる車軸に貫かれ支えられ回転する時の『回転音』である」という視点から論旨を展開したが、それだけではなく、そこには深い瞑想的、あるいは『脳神経生理学的な機序』が関わっていた可能性が高いのだ。

ここで、ヴェーダの詠唱を聞いてみて欲しい。

リグ・ヴェーダの詠唱。この音声を聴いて、何かを感じないだろうか?

ヴェーダの詠唱、と一言で言うが、詠唱とは一体何だろう?

それは、一定のリズムをもって朗々と尾を引くように歌うこと、だと考えれば当たらずとも遠からずだろうか。

赤ん坊の喃語には、あらゆる言語の音韻成分が未分化の倍音状態で全て含まれている、と言われるが、このヴェーダの詠唱もまた、実に複雑微妙な倍音に富んでいる。

この歌詠の唱法に、母音の「ファームウェア」性とも密接に関わりを持つ「瞑想的」な機序があると考えられるのだが。

アイタレーヤ・アーラニヤカの一節にはこうある。

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者の、そのメロディである音声(賛歌)は神々に快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼を知るだろう。

archive.orgさん:「The Upanishad by Müller, F. Max 1879」のP263再掲

 「彼の栄光は大地を満たす」「彼らは彼を知る」と言う言葉の真意は、祭祀において歌う者それを聴く者共々に一体と成って(もちろん神々も!)、瞑想の深み(天界の高み)に遊ぶ境地ではなかっただろうか。

『不死』なるブラフマンに至るための、“聖音オーム” の吟誦。

そこには、神聖ヴィーナとしての人の身体によって歌われる賛歌、さらにはその精髄としての “聖音オーム” の吟詠を、聖なる不死に至るための『瞑想実践』と捉える心象が確かにあった。

その『瞑想』は何よりも聖なる天界の神々、さらには “不死にして無畏” なる世界の中心原理『ブラフマンアートマン』に至る道、として祭官(あるいは求道者)たちによって実践されていた。

もちろん、この聖なる “不死にして無畏”、仏教的な文脈では『ニッバーナ』あるいは『至彼岸』を意味する事は言うまでもない。

そして、このニッバーナに至るための(瞑想実践上の)的確なアドバイスとして、正にブッダはソーナ比丘に向かって『ヴィーナの喩え』を説いたのだろう。

神々に至る瞑想としての賛歌の詠唱と、その精髄としての絶対者ブラフマンに至るオームの念誦。そしてニッバーナに至るブッダの呼吸瞑想アナパナ・サティ。

私の眼には、全てが一貫してつながっている様に見えているのだが、皆さんはどうだろうか。

それは、あたかもワインを蒸留してブランデーが出来上がり、それをさらに精製する事によって純粋アルコールが抽出される事に似ている。

賛歌を蒸留したものがオームの念誦であり、更にそれを精製抽出したものが、ブッダの『呼吸瞑想』である、という様に。

 

(本投稿は2013-2-10 「聖音オームと母音の関係 」脳と心とブッダの悟り - Yahoo!ブログ記事を加筆修正の上移転したものです)

 

 


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