仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

輪軸世界観からみた「聖音オーム」とブラフマン

前回の流れで、聖音オームと絶対者ブラフマンの同一視について考えてみたい。

以下、中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P40~ 抜粋

ヴェーダ祭儀における祈祷の文句は、聖音(オーム)のうちに集約的に表現されている。祈祷の文句をつづけて唱える場合に、最初または最後に〈オーム〉(OM)と唱える。

ウパニシャッドの思想においては、ついにこの聖音〈オーム〉が最高原理と見なされるにいたったのである。これは「しかり」「はい」「かしこまりました」という意味で、まさにイスラエルから西洋にいたる伝統における〈アーメン〉(Amen)に相当する。

もともと〈オーム〉の音はマントラの初めと終わりとに唱えるが、〈オーム〉という語は、最初にはバラモン司祭者たちのあいだで使われ、後世には若干の大乗仏教とやジャイナ教徒によっても唱えられるようになった。漢訳仏典では『唵』と音写されている。

今日でもなおヒンドゥ教徒たちは宗教上の儀式の際には〈オーム〉を唱える。そして別れるときに、修行をしている人は、「さようなら」のかわりに合掌して〈オーム・シャンティヒ〉(Om Shantih)という。

この神聖な音〈オーム〉は〈唯一者〉に到達しようとする形而上学的傾向においては絶対者のシンボルとして重要な意義を獲得した。あらゆる語は聖音〈オーム〉に包摂され、聖音〈オーム〉は全世界にほかならないと考えられた。

またこの神聖なシラブルは全ヴェーダの精髄であると見なされた。シラブルを意味するaksharaという語はまた『不壊』という意味があるので、この神聖なシラブルは不壊者、不死者、恐れなきもの、とされた。

それは絶対者ブラフマンであり、人はそれを知ったときに、それとなるのである。神々といえども、不死となるためには、それのうちに帰入する。

そのような論証においては、当時の神学者たちがいくたの論理的飛躍を行っていて空隙のあることをわれわれは見出す。

そして、ついにヴェーダンタ学派では、聖音〈オーム〉の念想は、絶対者の念想の事であると解せられるようになった。

(ハイライト筆者、以下同)

このオーム、インドやヨーガに関心のある方なら、たいてい知っているのではないだろうか。特徴的なシンボルマークと共に、インド全土であらゆる瞬間に唱えられている聖なる音節(シラブル)だ。

もちろん、例のカルト教団によって一躍悪名として知れ渡ってしまったオウムである、という大変残念な事実も、みなさん御存知かと思う。

このオーム、ヒンディ語ではॐ、アルファベットでは一般にOMもしくはAUMと書く。

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HinduGod99より:聖なるオームのシンボル

ここでオームは音節(シラブル)である、という言葉が出てきた。このシラブルという概念は重要なので、ここで少し詳しく見てみよう。

音節(シラブル)~Wikipediaより

音節(おんせつ)またはシラブル(英: syllable)は、連続する言語音を区切る分節単位の一種である。典型的には、1個の母音を中心に、その母音単独で、あるいはその母音の前後に1個または複数個の子音を伴って構成する音声(群)で、音声の聞こえの一種のまとまりを言う。

音節は、典型的には、

 1. 母音(V)
 2. 子音+母音(CV)
 3. 母音+子音(VC)
 4. 子音+母音+子音(CVC)

のような「母音を中心としたまとまり」である。

この中心となる母音を音節主音(おんせつしゅおん、英: syllabic)または音節核(おんせつかく、英: nucleus)と呼ぶ。

子音は母音の前後にそれぞれ複数個存在してもよいが、母音は二重母音、半母音を伴う多重母音、あるいは長母音ではあり得ても、1音節内に音節主音となる母音が複数個存在することはあり得ない。

音節とは、人間の音声(の聞こえ)の基本単位であり、母音を中心に構成されている。AUMとはAUという二重母音とMという子音が合わさった音節であり、OMの場合はオーという長母音とMが合わさった音節という事だ。

このオームと言う音節は、ヴェーダの詠唱の最初や最後に唱えられるだけではなく、詠唱そのものだと考えられていた。

同選集P42~引用:チャーンドーギャ・ウパニシャッドより

1. 『オーム』といって、この音節を詠唱であると念想すべきである。なんとなれば、詠唱〈ウドガートリ〉は(まず初めに)『オーム』といって詠唱をはじめる。この(神聖な)音について解説をしよう。

2. 大地はこれらの(この世に存在する)事物の精である。は大地の精である。草木は水の精である。人間は草木の精である。言葉は人間の精である。賛歌は言葉の精である。旋律は賛歌の精である。詠唱は旋律の精である。

 

中村:生きとし生けるものは、死ぬと大地に帰する。死体は大地よりなると古代インド人は考えていた。草木は水のあるところに生育する。人間は草木を食物として食べて生存する。さらに人間は言葉を話す唯一の生き物である。こういう事実を反省して、大地、水、草木、人間、言葉がそれぞれ精(エッセンス)であると考えられたのであろう。

 

3. こういうわけで、詠唱なるものは、もろもろの精のうちで最高の精、最上でもっともすぐれたもの、第八の精である。

中村:ここで「第八の」というのは、もろもろの「精」を数えてきた順序によると第八番目、すなわち最後の、という意味である。

4.では、賛歌とは結局いかなるものであるのか。旋律とは結局いかなるものであるのか。詠唱とは結局いかなるものであるのか。このことが考察されるのである。

5. 賛歌は言葉にほかならない。旋律は呼吸である。詠唱は〈オーム〉というこの音節である。したがって、言葉と呼吸、賛歌と詠唱とはそれぞれに一対をなしている。

6. したがって、この一対をなすものは、〈オーム〉というこの音節の中で結びつく。じつに、この二組の一対をなすものが合体するとき、それらは互いに欲望を満たし合うのである。

7. このことを以上のように知って、この音節を詠唱であるとして念想するものは、もろもろの欲望を満足する者となる。

オームに関する記述は延々8ページ近くにわたるので全てを引用はできないが、上記で重要なのは、賛歌とは人間の言葉の中からエッセンスを集成したものであり、それが旋律となって喉の奥から流れ出るのは呼吸の力である、という認識。

そして、それらの総合としての詠唱は、オームという音節そのものであるという認識だ。

言葉(音声)からなる賛歌が、呼吸の力で喉から旋律となって流れ出るものが詠唱に他ならない。詠唱の基本は言葉になる。その言葉、つまりは音声の基本単位がシラブル、つまり音節な訳だ(ややこしいがしばらくの我慢)。

その音節の中でも最も聖なる音節であるオームこそが、詠唱そのものである、そういう事なのだろう。

オームはキング・オブ・音節なのだ。だからこそオームは、詠唱の開始において朗々と唱えられる。

では、何故それがAUMという音節でなければならなかったのか?オームはなぜ、音節の中の王なのだろうか。

この問いについて考える前に、ひとつ重要な点を指摘しておきたい。聖音オームと同一視された絶対者ブラフマン。このブラフマンという言葉の、そもそもの意味はいったい何だっただろうか。

それは、ここで繰り返し語られているヴェーダの賛歌が詠唱として歌われた時に、その言葉の威力によって神々を動かす、その呪の力ブラフマンと呼んでいたのだ。

そのような祈祷の呪力を身に付けた者だからこそ、祭司(詠唱者)はブラフマナ(ブラフマンを知る者=バラモン)と呼ばれた。

詠唱された言葉(賛歌の音声)が持つ祈祷の呪の力=ブラフマン

賛歌の詠唱を構成する音声の基本単位=オーム(音節)。

このように考えてみると、絶対者ブラフマン=オームという同一視にそれほど無理があるとは見えない。むしろ同一視されるのが必然であるように思われる。

それは、言葉を音声として発する源である『呼吸』が、ウパニシャッドにおいてブラフマンと同一視された事実とも合致している。

言葉(音声)を詠唱という形で発する力=呼吸

詠唱された言葉に満ちた祈祷の力=ブラフマン

その言葉(音声)の基本単位=オーム(音節)

つまり呼吸とブラフマンと音節は詠唱という営為において見事にリンクしている事になる。ある意味三位一体といってもいいかも知れない。

「呼吸に乗って発せられた音節の連なりが、詠唱となってブラフマン(祈祷力)を生み出す」

このような呼吸とブラフマン(祈祷力)と音節の相関性が、ブラフマンが祈祷力から絶対者へとその意味を転じていった後にも引き継がれた訳だ。

そこで次に、何故この聖なる音節がよりにもよって『AUMという音節』でなければならなかったのか、考えてみる。他に音節は無数にあるはずなのに、何故それはAUMだったのか?

音節(シラブル)の中心となるのは母音だった。詠唱を構成する基本単位である音節の、さらに中心となるのが母音になる。

そしてAUMが実際にヨーギやバラモンによって唱えられるのを聞くと「おぉーぅM」という感じになっていて、この最後のMはほとんど発音されずに単に口を閉じることによってM(鼻音)の形になる(実際はほとんどン)。

いわばMは音声の終止符程度の意味しかないことが分かる。

オームという音声の構成は、ほぼ純粋に母音の連なり(多重母音or長母音)である、という事だ。これを覚えておきたい。その音声は、特に喉の奥深くを強く響かせる感覚で発声される。

それはまるで口咽腔を中心に身体全体がひとつの共鳴胴になったかのように。

選集のこの部分には書かれていないが、AUMという聖音は、伝統的なヒンドゥの解釈では大宇宙の背後に通奏低音のように遍満し流れている聖なる神の韻律だと言われている。

The cosmic sound is associated with the creation of the universe. It is believed that before creation, the humming of energy existed. That energy became the vibration of creation and so the universe was created out of the ever-present sound of Om.

This cosmic sound and its vibration still exists around and inside everyone.

 

このコスミック・サウンド(AUM)は大宇宙・世界の創造と密接に関連している。

世界創造以前から微妙なエネルギーのハミング状態があったと信じられている。そのハミングするエネルギーが創造の波動をもたらし、大宇宙・世界は創造された。常に臨在するOMサウンドと共に。

このコスミック・サウンドとその波動は今でも世界に常在遍満している。もちろん私たち全ての中にも。

Yogapediaより

一体なぜ、古代インド人はそのような神韻がこの宇宙万有の背後に流れていると考えたのだろうか。少なくとも私は、そのような背景音があるなどということは、インド思想に出会うまでまったく考えたこともなかった。それはつまり、日常的にはまったく聞こえない音なのだろう。

聞こえない音を彼らはどうやって「聴いた」のか?

そこでようやく登場するのが、輪軸の世界観だ。

古代インドにおける、この独特な『輪軸世界観』というパラダイムこそが、世界の背景音としての『聖音AUM』という発想の根源にあると考えると、色々な点で辻褄が合ってくるのだ。

AUMという大宇宙の背後に通奏低音のように遍満し流れている聖なる神の韻律。それは、大宇宙の開闢以来、途切れることなく流れ続け、この世界が維持され続ける限り、やがて世界が終わりに至るまで、止むことはないと言う。

つまりこの世界の背景音としてのオーム音は、世界が存在し運動し続けているいわば活動音であるとも言えるかも知れない。

ヒンドゥ教の三大神格のひとつであるヴィシュヌ神は、この世界の維持をつかさどると言われている。その彼が持つ聖なる神器にホラ貝(シャンカ)がある。

プージャなどでバラモンがよく吹き鳴らしているこのホラ貝の音もまた、この神の神韻を表しており、いわばオーム音の念誦は、自らの身体をひとつの共鳴管としてこの韻律を吹き鳴らす儀式なのだろう。

そこには、神が発する音響を模倣することによって、神の興味を惹きつけ、神のご機嫌を伺う、という方法論がある。

バード・コールというのをご存知だろうか。特殊な木製のネジとネジ穴を作り、両者をネジ合わせて回転させる事によって、キュルキュルっ?という音をたてる。その音が、鳥の声に似ているために、彼らはライバルか、あるいは魅力的な異性かと勘違いをして近寄って来るのだ。

神を呼び立てる場合にも、おそらく同じ原理が使われた。日ごろ人間とはかけ離れた天上界で自分たちだけの生活を送っている神々も、自らの神韻と同じような音声が地上から響いてくると、興味をそそられずにはいない。だからこそ、人々は神を呼びよせるために神のサウンドを模倣して、オーム音を発するのだ。

それでは、何故、ホラ貝の吹奏音の様な、あるいは人の口から発せられるオーム音の様な音が、世界の通奏低音として神から発せられていると古代インド人は考えたのだろうか。

すでに予告したように、それが正に輪軸世界観に由来すると考えられるのだ。

以前の投稿から、中村元選集決定版第8巻「ヴェーダの思想」の引用文を再掲する。

『宇宙の形に関しても明確な描写は存しない。ただ一回、これを重ね合わせた二個の鉢に譬え、また車軸によって車輪を支えるようにインドラは天地を引き離した(RV.Ⅹ,89,4)ともいわれている点から見ると、地表を円形と考えていたらしい。

天地は併称されることが多く、「二個の半分」と考えられているが、そのあいだの距離についてはなにも記されていない。(p451)』

ここには明確に、車軸としての最高神とそれによって分かたれ支えられる天地両輪という世界観が表されている。インドラが車軸によって(車軸になって)天地両輪を支えた瞬間こそが大宇宙の創造展開に他ならない。

この世界創造イメージは、既に言及した様に、その後ヴィシュヴァカルマンなどを経て絶対者(創造者)ブラフマンの一身へと収斂されていく。

車軸に車輪が支えられるという事は、当然車軸に車輪がはめられて、回転する事が出来るようになった、という事を含意している。つまり天地が分けられていない状態から車軸によって分けられて支えられた瞬間、つまり天地が開闢された瞬間から、この両輪は回転し始めたのだ。

これも以前引用した以下の文脈を想定するとリアルにイメージできるだろう。

「その唯一なる者が、(車輪のこしきのように)置かれていて、そこにあらゆる世界が安立していた」中村元訳 ヴィシヴァカルマン賛歌その2(10‐82)

というくだりは、以前紹介した「インドラが車軸となって天地の両輪を分かち支えた」という文脈を踏襲するもので、つまりこのヒラニヤガルバやヴィシヴァカルマンは、車軸としての『唯一性』を担った胎児なのだ。

(胎児が『骨盤』と言う車輪の軸穴(Kha)から誕生する事を思い出そう)

最後の「車輪のこしき」とは轂=ハブであり、前後の部分を辻直四郎先生は以下の様に訳している。

 

ヴィシュヴァ・カルマンの歌2,10,82

6. 水が最初の胎児として孕みしは、正にこれなり。その中にすべての神々が相集まるところの。不生者の臍に、唯一物ははめ込まれたり。その中に一切万物の安立するところの。

リグ・ヴェーダ賛歌 辻直四郎訳より

おそらく中村先生の訳中の「車のこしき(ハブ)」と、この辻先生の訳を合わせ読むとより真意が明らかになる。ここでは、この『唯一物』臍(ヘソ)にはめ込まれる、と言う事実関係が明らかだ。

そして、この臍の原語であるNabhiは人体のヘソであると同時に車輪中央の『ハブ』をも意味する。

つまりヘソでありハブであるところのNabhiの穴に、唯一物ははめ込まれる。ハブ穴にはめ込まれるのは車軸以外に何があり得るだろう

つまりこの「不生者のヘソ」とは宇宙原初の胎を表し、胎(車輪なる骨盤)の孔にはめ込まれるようにして生まれる胎児の姿が、この唯一物に投影されているのだ。

そして別の世界創造神話であるプルシャ賛歌には、この世界が創造のその瞬間から回転し始めた、と言う原心象が見事に表されている。

プルシャ(原人)の歌(10, 90)

14 臍より空界生じたり。頭より天界はせり。両足より地界、耳より方処は。かく彼ら(神々)は諸々の世界を形成せり。

以上、辻直四郎訳 リグ・ヴェーダ賛歌より

私が個人的に気に入ったのは、ここに「頭より天界は現せり」として、天界の転回性が明記してある事だ。これは以前にも書いたが、天の太陽や星々が回転運動をする事実を車輪の回転に重ねたもので、それがこの賛歌でも確認できた事は大きい。

世界は車軸なる神があたかも車輪を分かち支える様にして展開(創造)され、その瞬間から車輪の本性として回転し始めた。

ここで先ほどのバード・コールを思い出して欲しい。バード・コールの音が出る構造と、車軸に車輪の軸穴がはめ込まれ回転する姿は、重ならないだろうか?

そう、二つの木質がはめ込まれ密着回転され、お互いにこすり合わされた時、その合わせ目からは微妙な音が発せられるのだ。

古代インドのスポーク式車輪の素材については詳しいデータは得られていない。しかし、リグ・ヴェーダを創ったインド・アーリア人の魂の原風景においては、車軸も車輪も全て木質だった事が、彼らの原郷であるロシア南部のチャリオット葬遺物や、現存するインドの車輪製造技術から推定できる。

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プーリー・ジャガンナート寺院の山車の車輪。全て木製で造られる

アーリア人がインドに侵入した前後には、ひょっとするとすでに車軸は金属製のものが登場していた可能性もあり、またブッダの時代には金属製車軸が主となっていた可能性も高いが、今は置いておく。

ここで重要なのは、どんな材料であれ、車軸と車輪(ハブ)の軸穴が組み合わされこすれ合って回転した時、バードコールと同じ原理で、必ずある種非日常的な擦過(摩擦)音が発生するという事実だ。

車輪の回転音と言うと一般に三種類が考えられる。

ひとつは今扱っている車軸と車輪が触れ合うところに生まれる擦過音、次に車輪が回転することで生まれる風切り音、最後に車輪の外周(タイヤ)の接地面が、地面とぶつかりこすり合う走行音だ。

ここでは純粋に車軸との関わりにおいて生まれる擦過音についてのみ考えたい。

その音は一体、どんな音だっただろうか。私たちの日常世界には古代インドそのままの車輪セットは存在しないので、近似的な何かで想像してみる。

例えば自転車の前輪を高速で空回しした時、そこにはどのような回転音が生じるだろうか。公園の回転遊具に子供たちがとりついて回して遊んでいる時、あるいは、陶芸教室でろくろを高速で空回しした時、どのような音が生まれるだろう。

重く大きなルーレット盤を回した時、あるいは大きなコマを回した時、あるいは強力なモーターを回した時、それら回転音に共通する性質があるはずだ。

それらを踏まえた上で、ある程度の重量を持った木質同士がこすれあい回転する音を想像してみて欲しい。例え輪軸の間にグリースが塗られたとしても、そこには必ず独特の回転摩擦音が存在しているはずなのだ。

私の想像では、それはある種独特の深い共鳴を伴ったゥオォォォォンというようないわく言い難い通奏低音ではなかっただろうか。

私はこの音こそが、聖音オームの原風景である、そう考えている。

それがインドラであれブラフマンであれ、至高なる神によって天地両輪が分かたれ支えられてそれらが回転し始めた瞬間から、この通奏低音鳴り響き始める

そしてその運動が維持され続ける(回転し続ける)限り、つまり世界が崩壊するその瞬間まで、その神韻は鳴り響き続けるのだ。

そう考えると、何故世界の維持を司るヴィシュヌ神の神器としてホラ貝が与えられたのかがよく分かる気がする。さらに私は、彼の4つの神器に車輪と『ダンダ』と呼ばれる棒が含まれている事を思い出す。

ホラ貝は回転する宇宙の通奏低音を、棒はその回転を支える車軸=ヴィシュヌ自身を、車輪は回転する世界を表していると考える事も出来だろう。

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上右手に棒、上左手に車輪、下左手にはホラ貝を持つヴィシュヌ神

(一般にはこの車輪はスダルシャン・チャクラと呼ばれ、悪魔を倒す破邪の武器だと考えられているが、歴史的にみれば投擲武器チャクラムの投影は後世の事だろう)

神の柱である車軸に、天地両輪が組み込まれて回転するとき、そこには必ず日常慣れ親しんだ車輪の回転音と近似の音が発生するに違いない。古代インド人がそう考えたとしたら、全ての謎が解ける。

世界の回転(展開)については様々な文脈があるが、基本的に神なる車軸に支えられて初めて成り立ちうる。また、柱なる車軸は同時に神の身体でもあることから、そこから発せられる回転音は、神の声とも理解されうるだろう。

その神の声をオーム音によって模倣することで、神を呼びよせるいわばデーヴァ・コールとしての働きが想定された。そう考えると、全ての祈祷の始まりにおいてこのオームが唱えられた訳が了解できる。

それは、神の注意を呼び覚ます開会のファンファーレだったのだろう。

ならば本来神々の音韻を模したものであるオーム音が、やがて神々の至高性を一身に収斂した絶対者ブラフマンそのものだと考えられるようになったのは、至極自然な成り行きではなかっただろうか。

冒頭に掲載したオームのシンボルマークをもう一度振り返って見よう。そこでは ॐ の文字が、あたかも世界の車軸であるかのように、円輪放射する光輝世界中央に置かれていないだろうか。

 

 (この投稿はYahooブログ2013年2月9, 22日記事「聖音オームとブラフマン1, 2」を統合し加筆修正後に移転したものです)

 

 

 


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