仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

悪魔 vs 梵天:「不死の門は開かれた!」

前回の投稿では、その最後に「スッタニパータ :第二 小なる章・7バラモンにふさわしい事」の全文を引用し、また「長部・三明経」や「ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド」の当該部位をそれに重ね合わせ、その特徴的な心象世界について分け入っていった。

そこであぶり出されたのが、悪しきバラモン祭官が狂奔し耽溺する『享楽』と『欲望』、およびそれらに対する飽く事なき『執着』であり、それらに駆り立てられて彼らが執り行う、動物の犠牲を伴った『悪しき祭祀』であった。

面白いことにブッダは、これら貪欲なバラモン祭官によって行われる動物供犠を伴った悪しき祭祀の結果として人倫は乱れ、それまでにはなかった病が蔓延し、世界がより不幸になったと非難している。

彼はバラモンが行う祭祀行為が持つこの世界に対する『威力』を決して否定してはいない。むしろ善き祭祀が世界を善く整え、悪しき祭祀が世界を悪しく堕とす、として、善きにつけ悪しきにつけ積極的にその『効力』を是認しており、だからこそ、それら『悪しき祭祀』とその執行者を、社会の命運と絡めて弾劾しているのだ。

そこで私は、最後にこのように書いている。

祭祀とは超越的な威力を持つ神々をその式次第によって喜ばせて、その返礼(恩寵)として善き結果がもたらされる事を期待するものであり、もし悪しき祭祀の結果、世界に悪しき影響が降りるのならば、そこには悪しき祭祀を捧げられて喜び、返礼として悪しき果報をもたらす『悪しき威力』が想定されなければならない。

もしそんな者がいるとしたら、それは悪法である悪しき祭祀を喜び、悪徳を喜び、それによって威力を増し、ますます世界を悪に染め上げて破滅に導いていく、全き悪魔のような神格だろう(イメージとしては黒魔術)。

そしてもちろん、パーリ経典にはそのような『悪の権化』が登場している。それこそがパーピマントやナムチ、あるいはマーラやカンハ(黒魔)と呼ばれる『悪魔』たちに他ならない。

『四梵住』とブラフマ・チャリヤ【後編】 - 仏道修行のゼロポイントより

この辺りは若干の説明が必要かもしれない。例えばキリスト教などでは、全能の唯一神がおり、人間が善き行為を行えばよい果報、例えば「死後の天国」などを与え、悪いことをすれば罰を与える。一方で、悪魔と呼ばれる『堕天使』がおり、世界や人々を悪に染めようと企んでいる。

一方でインド教における神々と言うのは、基本的に善神悪神に分かれており、祭祀を含め人間が悪しき行為をなすと、それに対して善神が罰を与える、と言う考えは非常に希薄で、むしろ悪行為に対しては悪神が喜び、その力を増長させ、この世界に悪しき果報を与える、という形をとる。

そして、これは最も重要な点なのだが、プラーナや叙事詩などの神話を見ると、善なる神々と言うものは、基本的には主体的(能動的)影響力をこの現象世界に対しては持っておらず、ひとえに人間によって執り行われる祭祀や苦行などによってはじめて、『受動的に』その力を増し、この現象世界に威力を発揮できる、と言う事らしいのだ。

この点は悪神についてもまたしかり。つまり、天界には善神と悪神が常に拮抗・対立関係にあって張り合っているが、それらの勢力図の均衡は、多分に人間が執り行う祭祀などの効力にかかっている。

人間が善き祭祀をすれば、善神がその力を増長させ、善なる力を行使して、世界は幸せになる。しかし逆に間違った悪しき祭祀をすれば、悪神がそれを喜びその力を増長させ、世界に不幸をもたらすのだ。

このようなインド教世界における善神と悪神の対立・拮抗構造と、そこで占める『祭祀』行為が持つ必須的役割を理解して初めて、仏典の中の『様々な文脈』が持つその『真意』というものが明らかになる。

具体的には、それは仏典においてしばしば登場する、梵天を最上首とした神々と『悪魔』との関係性、及びそれぞれの『存在意義』だ。

それはブッダが悟りを開く前後における、悪魔と梵天神の登場の仕方とその『役割』の中に典型的に現れている、それぞれの『立ち位置』の対称性を以下に見て行こう。

まずはブッダブッダガヤの森(ネーランジャラー河の畔)で苦行に専念していた時に現われた悪魔(ナムチ)とブッダとの対話だ。

二、つとめはげむこと

425 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

426 悪魔ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいて来て、言った、「あなたは痩せてして、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

427 あなたが死なないで生きられる見込は、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなす事もできるのだ。

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろう。

429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい」と。この詩を唱えて、悪魔は目覚めた人の側に立った。

430 かの悪魔がこのように語ったときに、ブッダは次のように告げた。
「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

431 わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

432 わたしには信念があり、努力があり、また知慧がある。このように専心しているわたしくしに、汝はどうして生命を保つことを尋ねるのか?

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

434 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

435 わたしはこのように安住し、最大の苦痛をうけているのであるから、わが心は諸々の欲望をかえりみる事がない。見よ、心身の清らかなことを。

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。

438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することとはー

439 ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。

440 このわたくしがムンジャ草を口にくわえるだろうか?(敵に降参してしまうだろうか?)この世における生は厭わしいかな。わたくしは、敗れて生きるよりは、戦って死ぬほうがましだ。

441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。あたかも焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、かれは赴くであろう」

446 (悪魔は言った)、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、には、つけこむ隙をみつけることができなかった。

447 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。

448 そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石に近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る」

449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

(文中、苦行に邁進している沙門ゴータマがブッダと称されているが、これは悟りを開く以前、すなわちブッダになる以前の苦行時代の事を、後世の視点で表記した事からの混乱だと思われる。この時点で、彼はいち苦行者でありブッダにはなっていない。

しかし後半部では、ブッダになって以降の自らの布教と仏弟子たちの展望について語っており、時系列が混在している)

 ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村元訳 より

ここでは、断食などの激しい苦行に邁進するブッダ(苦行時代のゴータマ、以下同)に対して、悪魔が来てこう言っている。

 「(428) あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる」

 これは前回までに登場した三ヴェーダを修めた伝統的な祭官バラモンの営為について語っており、ここで『聖火に供物を捧げて』という時の供物とは、恐らくブッダが批判して已まない『動物犠牲』を意味するのだろう。

つまり悪魔は、その時代に広く行われていたバラモン祭官の供犠祭という実践こそが、唯一功徳を積む事が出来る正しい『祭祀』であり、苦行には(祭祀として)意味がない、と言っている。

ここに伝統的な供犠祭祀と苦行と言うものが、共に『功徳を積むために』という文脈で語られ、悪魔の立場から見て供犠祭祀には意味があるが、ブッダの行っている苦行には意味がない、と言っている。

この文脈が成り立つためには、苦行と言うものが、ある種の『代替祭祀法』であり、動物供犠祭に取って代わるオルタナティブな『内なる祭祀』としてまず登場した歴史があるのだが、ここでは深入りしない。

とにかく悪魔は、ブッダの実践する『苦行』は「功徳を積むためには意味がない」と言って、その中止を勧めている。

一方それに対してブッダが何と返答したかと言うと、

「(430)怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、(431)わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい」

となっている。ここで注意すべきは、『善業』という肯定的な表現ではあるが、(世間)という括弧がついている様にそれは、いわゆる妻帯する世俗人であるバラモン祭官が執り行う供犠祭とそれに従って期待される『欲望の充足』であって、苦行者ゴータマの求めているものは、その様な世俗的な欲望の充足やそれを得るための祭祀という意味での『善業の功徳』ではないのだ、という事だろう。

これを前回までの文脈に重ねれば、世間的な善業とは人間界と神々の世界という共に『輪廻する欲界の車輪』の内部において欲望の充足を希求し実現するための祭祀(通俗バラモンにとっての善業)と、そのような『欲界・輪廻からの解脱』を希求するサマナ求道者の道、という対称関係に他ならない。

これをブッダの進める解脱道の立場に立って分かり易く言えば、ブッダの求めているものこそが『真の善業』であり、バラモン祭官が執り行い悪魔が推奨している祭祀実践とは、すなわち『実は悪業』になる(だからこそ、悪魔は『悪しき者』なのだ)

このようなブッダから見た『悪業実践者』は、「(441)或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない」という言葉にある『或る修行者たち・バラモンども』に全く相当するだろうし、彼らが見る事のできない『徳行ある人々の行く道』とは、沙門ゴータマの実践する『解脱道』に他ならないだろう。

そして、その悪魔の軍隊として列記される『欲望』『嫌悪』『飢渇』『妄執』『ものうさ・睡眠』『恐怖』『疑惑』『見せかけと強情』『誤った利得と名声と栄誉』『自己賞賛と他者蔑視』という十の項目は、前回引用した三明経の、

「ヴァーセッタよ。聖者の戒律において五官の欲望は、鎖とも縛るものとも言われている。これらの五つの欲望の部門に対して、ヴェーダに詳しいバラモンたちは執着し、夢中になり、罪を犯し、また思うがままに操る智慧を持たずに享受し愛欲という縛るものに結び付けられていながら、身体が亡びた後、梵天と共生するであろうと言うが、この事に根拠はない」

「聖者の戒律において、妨げとなる五つのもの、すなわち愛欲、悪意、怠惰・眠気、狂騒・無作法、疑い深さ、という障害に妨げられているバラモンは、三ヴェーダに詳しいと言えどバラモンとなるべき特質に反しており、死後梵天と共住するという道理はない」

 原始仏典〈第1巻〉長部経典1 春秋社刊 P560~三明経より

の後段における「愛欲、悪意、怠惰・眠気、狂騒・無作法、疑い深さ」と多く重なるものであり、三明経においてバラモンとなるべき特質に反している」と非難されているバラモンと、スッタニパータ「つとめはげむこと」の中で『悪魔の軍隊の内に埋没してしまっている者』とが同じである事は明らかだろう。

同じように上の三明経、その前半において「五つの欲望の部門(色声香味触)に対して、執着し、夢中になり、罪を犯し、また思うがままに操る智慧を持たずに享受し、愛欲という縛るものに結び付けられている三ヴェーダに詳しいバラモンたち」が悪魔の虜囚である事は、以下の『悪魔との対話』を見れば良く分かる。

サンユッタ・ニカーヤ 第Ⅳ篇 第二章 第七節 「認識の領域」

7:そこで尊師は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向かって詩をもって語りかけられた。

色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに思考の対称たるものと、…これは世人をおびき寄せる恐ろしい餌である。

世人はそれにうっとりとしてまともに受けている。

ブッダの弟子は、これを超越して、気を付けて、悪魔の領域超えて、太陽のように輝く」

8:そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしの事を知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。

ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2 中村元訳 P34~より 

上の引用では『思考の対称=意官の法』が第六のものとして加えられているが、基本的な構造は変わらない。三明経においてバラモンとなるべき特質に反しているバラモンたち」とは、「五官・六官の欲望という悪魔の領域に完全に取り込まれている者たち」なのだ。

反対に、ブッダ、もしくは悟りを開く以前の沙門シッダールタが目指すものとは、五官六官の欲望と言う『悪魔の領域』からの解放である、と位置付けられるだろう。その様に考えて初めて、パーリ経典で強調されてやまない『六官の防護』というものが実践的な『意義』として把握可能になる。

そのような『悪魔の領域』からの『超越』こそが『解脱』に他ならず、これまでの文脈を敷衍すればその『解脱』とは、『ブラフマン神の世界に到る』事に他ならない。

その原像はやはりウパニシャッドの中に見出す事ができるだろう。

ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第四章 第四節

 

7:したがってこのような詩頌があります。

彼の心に拠る欲望が、すべて除き去られる時、死すべき人間は不死となり、この世においてブラフマンに達す、と。

 

23:「従って、このことは讃誦によって述べられています。

『それは婆羅門の永遠の偉大さであり、によって増大することなく、また減少することもない。

その足跡を探ね知るべきである。それを知るとき、悪業(Pāpakena)に汚染されることはない』、と。

その故に、このように知る者は、心の惑うことなく、平静で落ち着いており忍耐強く、心の統一した者となり、自己の中心にアートマンを視、一切をアートマンと視るのであります。
彼を悪(Pāpmā)が征服することなく、彼は一切の悪(Pāpmānam)を征服します。彼を悪(Pāpmā)が焼き尽くすことなく、彼は一切の悪(Pāpmānam)を焼き尽くします。
彼は悪を去りVipāpo、穢れを落とし、疑惑の無くなった真の婆羅門となります。それはブラフマンの世界であります、大王よ。
あなたは今、その世界に到達させられました」
と、ヤージャニャヴァルキヤが語った。

 

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P273~279より

上の前段、『欲望』と訳されているものの原語はkāmaであり、その英訳はDesiresと複数形になっており、それら欲望を整理して定式化したものが三明経における五つの欲望(その原語は同じくkāma)である事は見やすいだろう。

そして、上の後段、「それを知るとき、悪業(Pāpakena)に汚染されることはない」「彼をが征服することなく、彼は一切のを征服します。彼をが焼き尽くすことなく、彼は一切のを焼き尽くします。彼はを去り~」と言う時の『悪』の原語はpaあるいはPāpmāであり、これが仏典における悪魔の一名Pāpimantの原像であると見る事もまた自然だ。

更に次の「疑惑の無くなった真の婆羅門」とはパーリ経典にもしばしば登場する概念であり、その『疑惑』は三明経の五蓋の内のひとつに全く重なり合う。

635:こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく不死の底に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

前掲書:スッタニパータ 中村元訳より

このように見てくると、仏典における五官・六官の欲望をその領域として支配する悪魔と、その領域からの解脱という概念は、ウパニシャッド的な悪、すなわち『Pāpa(Pāpmā)』と『ブラフマンの世界』との対置構造をそのままに踏襲している事が理解できるはずだ。

チャーンドーギャ・ウパニシャッド 第八章 第4節

2:一切の邪悪(Sarve pāpmāno)は、そこから引き返す。何故ならば、かのブラフマンの世界はあらゆる悪(Pāpmā)を絶滅しているからである。

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P173より

しかしもちろん、ブッダの説く世界観はウパニシャッドのそれからは一皮むけたバージョン・アップを見せている。そこで次に、『悪魔(マーラ、ナムチ、パーピマント等)』ブラフマン神』との関係性を彼らの心象世界に沿って考えてみよう。

前者が支配する『悪魔の領域』こそが『輪廻する現象世界(欲界)』そのものであり、後者はそこから超然とした『解脱界』であると同時に、理念的に理想化された『善悪の彼岸にある絶対善』の象徴として、悪の権化である悪魔たちとは対立関係にある『ブラフマンの世界』を成している。

ではしかし何故、本来はブラフマン神によって創造された世界において、彼と対立する絶対悪、としての悪魔たちが顕在化し幅を利かせるようになったのか。それこそが、バラモンたちが推進する『悪しき殺戮祭祀』の結果、に他ならないのだ。

何しろひとたび原初の一者であるブラフマンが世界を創造してしまえば、その後は世界は自律的発展能にしたがって自ずから因果的運動を成していくのみで、ブラフマン自身は世界から『解脱』した圏外にただ独り住まうだけで、彼が積極的に世界に関与し善き正しき方向に向かわせると言う権能は持っていないのだ。

(それでもなお、ブラフマンは絶対者として一切の現象世界の背後に厳然として存在する!この場合の『絶対者』とは『相対を超えた』という意味での『絶対』であって、キリスト教的な神のような『絶対的な権能』を持った『全能支配者』では全くない)

その代わりに世界の命運を支配するのが、いわゆる『祭祀の威力』であり、ブッダ、あるいはウパニシャッド以前のそれはバラモン祭官によって独占されていた。

バラモン祭官によって独占されてはいたのだが、彼らが善き祭祀を執り行っている間は、世界は善神の威力・功徳によって幸福に安定していたのである。世俗世界における『欲望』もまたバランスを保っており、世界の運行をかき乱すものでは無かった。

しかし、バラモン祭官たちが欲望に駆られ悪しき祭祀である殺戮の動物供犠を開始し推進した結果、悪神であるナムチ・マーラ・パーピマント達がその『悪しき力(Pāpmāの威力)』を増長させ、世界は不幸と混乱に陥る羽目となった。

そこに登場したのが、ブラフマンの解脱境をこの世において体現した(Brahma-sama)ゴータマ・ブッダであった。この『この世において』という点が極めて重要な意味を持っている。

先に説明した様に、絶対者ブラフマンはこの現象世界の創造者でありその背後に『内在』している者ではあるが、現在はこの現象世界の『圏外』に位置する『解脱界』を体現する者であって、ある種『実践的』には、彼は直接この世界に働きかける事は出来ない

つまり、悪しきバラモン祭官が執行する悪しき祭祀によって『悪魔』たちが力を増長させてこの世界を悪しく落としていったとしても、彼ブラフマン自身は創造主でありながら為す術がない(この辺りはサーンキャ思想の『プルシャ』に全く相同でありそれの原像に相当するか)

繰り返すが、彼は相対を離れた絶対者ではあるけれども、キリスト教の神の様な『全能なる支配者』として現象世界を統べている訳ではないからだ。

では、彼・創造者ブラフマン神は、悪しきバラモンの悪しき祭祀(悪法)によって悪魔たちが増長し、(彼の創造した)世界が生きながらの地獄を体現するかのように悪しく落されて行くのをみすみす指を加えて座視するのみなのだろうか(その『世界』とはある意味彼の分身であり、『彼自身』でもあるのに!)

この窮地に、正に『この現象世界の中』に『救世主』として登場した者こそが、覚者ゴータマ・ブッダだった。彼はブラフマンの解脱境に至った者であり、現象世界に生きながらブラフマンに成った(Brahma-bhuta)者であり、ブラフマンに等しい(Brahma-sama)者であった。

つまり彼は、正に現世において生きながら解脱したというその『両界性』おいて、ブラフマンの解脱界と輪廻する現象世界という本来は完全に隔絶した二つの世界の、その『隔絶』を乗り越えて『交通』する能力を獲得した事になる。

その様な生きながら解脱した『ブラフマンの覚知者・体現者』を通じてのみ、ブラフマン神はこの世界と交通する事が出来、その威力を行使する事ができ、その請願を満たす事ができる、という一点において、ゴータマ・ブッダブラフマン神にとって、希望の星となったのだ。

(このようなブラフマン神と覚者ゴータマとの関係性は、ヴェーダの神々とバラモン祭官との関係性に全く重なり合うのだが、これは後段で改めて)

この間の消息はブッダ成道直後の、いわゆる『梵天勧請』のエピソードに詳しい。

サンユッタ・ニカーヤ 第Ⅵ篇 梵天に関する集成

第一章:第一節 「懇請」

(これはネーランジャラー河の岸辺、ウルヴェーラー(ブッダガヤ)村で沙門ゴータマが菩提樹の下で結果禅定し悟りを開いたばかりの時の事。静かに瞑想に耽る彼の心の内にこのような考えが起こった)

3:「わたしの覚ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところが世の人々執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。

さて、執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、すなわち縁起という道理は見がたい。

またすべての形成作用のしずまる事、全ての執着を捨て去る事、妄執の消滅、貪欲を離れる事、止滅、やすらぎ(ニッバーナ)というこの道理もまた見がたい。

だからわたしが理法を説いたとしても、もしも他の人がわたしの言う事を理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたしには憂慮が残るだけだ」と。

4:(そして次の素晴らしい詩句が尊師の心に浮かんだ)

「苦労してわたしが覚り得た事を、今説く必要があろうか。貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理を覚る事は容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々には見る事ができないのだ」と。 

ブッダがこのように省察し、開教しない方向に心が傾いた時、)

6:(世界の主・梵天ブッダ心を心によって知り、こう思った)

ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しく覚った人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ!」

(そして梵天界からブッダの前に姿を現して、)

8:ブッダに対して合掌・礼拝して言った)

「尊い方!尊師は教え(真理=ダンマ)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を覚る者となりましょう」と。

9:(そして続けて次のように説いた)

汚れある者どもの考えた不浄な教えがかつてマガダ国に出現しました。

願わくばこの不死の門を開け。無垢なる者の覚った法を聞け。

譬えば、山の頂にある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼のある方は、真理の高閣に登って、〔自らは〕憂いを超えていながら〈生まれと老いとに襲われ、憂いに悩まされている人々〉を見そなわせたまえ。

〔起て、健き人よ、戦勝者よ。隊商の主よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。世尊よ、真理を説きたまえ。真理を悟る者もいるでしょう〕」

10:そのとき尊師は梵天の懇請を知り、生きとし生ける者への憐みによって、覚った人の眼によって世の中を観察された。

11:尊師は覚った人の眼によって世の中をみそなわして、世の中には、汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しい姿の者ども、見にくい姿の者ども、教え易い者ども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への恐れを知って暮らしている事を見られた。

13:見終わってから、世界の主・梵天に詩句をもって呼びかけられた。

「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれたおのが信仰を捨てよ

梵天よ、人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ」

14:そこで《世界の主・梵天》は

「わたしは世尊が教えを説かれるための機会をつくることができた」

と考えて、尊師に敬礼して、右回りして、その場で姿を消した。

ブッダ悪魔との対話(岩波文庫) 中村元訳 P84~ 梵天に関する集成より

少々長い引用だが、重要なポイントをそれぞれ見て行くと、まず「3:執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々」というのは、明らかに『輪廻する欲界』の中で何の疑いもなく生きている世俗の人々を指している。

それが、聖職者を名乗りながら基本的にその様な生きざまに何の疑問も持たずに欲望・執着に耽溺しているバラモン祭官たちを特に意識しているだろう事は、前回取り上げた三明経の下りなどを思い起こせば容易に想定可能だろう。

これは4:「貪りと憎しみにとりつかれた人々」「欲を貪り闇黒に覆われた人々」にも全く同じことが言えるだろうし、梵天の言う「9:かつてマガダ国に出現した《汚れある者どもの考えた不浄な教え》」とは、正に欲にまみれたバラモン祭官が執り行う『殺戮祭祀』を直接的に示唆している。

この部分、先に引用した悪魔が、ヴェーダを学ぶバラモン祭官の祭祀(動物供犠を伴う殺戮祭祀)を苦行者ゴータマに推奨したのとは対照的な梵天の立場が明瞭に示されている。

そして、その様な悪しき祭祀によって悪しき者(ナムチ、パーピマント、マーラ)の力が増長し、世界が悪しき状況に落とされているのを目の当たりにして憂慮しているからこそ、梵天の言う「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する」という嘆きの叫びがリアルに理解可能になる。

このままでは増長した悪しき力によって世界は破滅する。しかし、梵天自身は『解脱界』に超然としており、現象世界に有効な介入をする権能を有していない。

そこに生きながらブラフマンの解脱境に至ったゴータマ・ブッダが登場した。彼は現象界と解脱界の両界をまたぐ存在であり、解脱界の知識(Vidiya)を持って現象界に働きかける事の出来る稀有にして唯一の存在(その時点で)だった。

しかし、その世の救い主が、あろう事か世界に働きかける事を放棄しようとしている。せっかく悪しき者(ナムチ・パーピマント・マーラ)に勝つことの出来る(個人的なレベルではすでに勝っている)ブッダが現れたのに、世界における悪法(バラモンの悪しき祭祀)と悪魔(それによって増長する悪しき威力と結果)の跳梁を野放しのまま放置すれば、遠からず世界は滅びてしまう(繰り返すが、どんなにヤキモキしても梵天ひとりではどうしようもない)

だからこそ、梵天はそこで「この不死の門を開け」とブッダに懇請する。冒頭の「この」とは正に「わが住まうブラフマンの世界(解脱境)に入る不死の門」に他ならないだろう。

ただ門が開かれても意味はないだろう。その真意は、「多くの人々を教化して出家させ弟子とし、ブッダ自身と同じようにその門をくぐってブラフマンの世界=不死』に到れる様に、適切に導く」、という事を核心としている。

(悪魔の一名である『マーラ』の原義は殺す者、すなわち『死魔』であり、『不死の門』は『死魔からの解放』、としても対称を見せている)

ここで重要な意味を持ってくるのが、先に言及した「解脱界と現象世界の『両界』に同時存在する」という『生きながら解脱した者』の特性だ。

彼すなわちブッダは、この世界の創造者にして『全一者』でありながら実践的にはこの世界に対して為す術のないブラフマン神と、『瞑想を通じて』同化し(Brahma-sama)つながり、ブラフマンの『絶対善』を現象世界のただ中において『体現・実践』することの出来る『代行者(ある種の《化身》)』に他ならないからだ。

これは以前に言及した様に、ブッダの瞑想実践が、最高天にして解脱界を体現するブラフマン神と繋がる為の『内なる祭祀』であると考えると理解しやすい。

一方には、煩瑣かつ殺戮を伴う祭式によって(欲界の)神々と繋がり、その威力を地上に降ろし、その事に拠って社会的な特権性を確立していたバラモン祭官(実は悪魔の虜囚・手先)という存在がある。

それに対する批判的代替として、瞑想行法と言う全き非暴力(あらゆる『行為』の放擲であり、あらゆる『欲望』の放擲)の実践によって、その深み(サマーディ)においてブラフマン神(解脱)と繋がり、その絶対善の威力を地上に降ろしマーラ(悪しきバラモン祭官)たちと戦い世界を救うブッダ達という『対置構造』がそこにはある。

悪しき威力であるナムチ・パーピマント・マーラの僕である悪しきバラモン祭官たちは、この地上に蔓延りのさばっている。ならばそれと同じような数と勢力で絶対善たるブラフマン神(梵天)と繋がる戦士たちが養成されなければ、この戦いに勝ち目はない。

世界は悪(パープマー、マーラ)によって混乱し堕落し続け、ついには必然的に滅亡するだろう。

だからこそ、ブラフマン神=梵天ブッダに「世間を歩みたまえ。世尊よ、真理を説きたまえ。真理を悟る者もいるでしょう」と世間に立ち戻って内部から働きかける事を促して、その滅亡を回避させようと請い願う。

梵天ブラフマン神)が「9:願わくばこの不死の門を開け」と言う時、それは明らかにブラフマンの世界という解脱境に至る(その境界となる)門を意味し、これは直接的にウパニシャッド的な『不死=ブラフマン』観を引き継いだものであり、だからこそ彼梵天の口から、「わが解脱境(不死)に至る門を開き、そして善神であるわが同志を増やせ」としてこの言葉が発せられるのだ。

チャーンドーギャ・ウパニシャッド 第二章 第24節(抜粋)

世界の門扉を開きたまえ。われら汝を仰ぎ見て、支配を、さらに大なる支配を、自主独立の支配を、覇王の支配を、贏ち得ん。

それこそ、祭主の世界である。祭主のわれは、寿命を終えた後に、そこに行くであろう。スヴァーハー。をはずしたまえ」

(これはバラモン祭式においてアーディトヤ群神などに捧げられた賛歌だが、基本的な原像として提示した。つまり、それが神々の世界であれ、唯一者ブラフマンの解脱境であれ、境界にはがあり、そこで選別が行われる。※筆者)

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P59~より

 

同、第八章 第3節

4:「これは不死であり無畏である。それはブラフマンである」

同書、P173より

 

同、第八章 第6節

5:~彼は太陽に達する。それは実にブラフマンの〕世界の門であり、知者たちの入り口であると同時に、無知なる人々の入るのを拒む門扉である。

同書、P176より

 

ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第四章 第4節

14:われわれはこの世にありながら、それ(ブラフマン)を知る。

そうでなければ、無知と大破滅があろう。

その事を知る者は不死となり、

そして他の者たちはまさに苦悩に赴く。

同書、P275より

上の引用を見れば、『不死の門』とブラフマン神との関係性が、直接的にウパニシャッド的文脈に由来する事は明らかだろう。

ここに、ブッダに開教を懇請する役回りが梵天でなければならない論理的必然性がある。逆に言えば、死すべき輪廻の内にあり、解脱に関しては何の資格を持たないインドラなどの諸神(複数)では、ブッダにこのように語りかける権能も必然性もまたないのだ。

(実は輪廻転生思想の最初期においては、天界の神々の世界こそが『不死』『永遠の幸福』の世界であると考えられていたのだが、ここでも後発の神格であるブラフマンによる下剋上が行われ、神々は輪廻の内にある死すべき者に落とされた)

繰り返しになるが、ここでは悪しきバラモン祭官&悪しきナムチ・マーラ・パーピマント(輪廻の内にある)連合』VS『善き瞑想行者(内なる祭祀実行者)&絶対善なる梵天神(ブラフマン神=解脱界)連合』という対峙構造が暗示的に前提されている。

前者の共通言語は『欲望』や『我執』であり『真理に対する無知』であり、後者のそれは『無欲』と『無私』であり『真理に対する明知』であり同時にそれは前者『悪魔の領域(無知)』からの『解脱(明知)』である。

そして後者が世界に対して共有する心的スタンス、それこそが憐み、すなわち『慈悲喜捨であった。

この『慈悲喜捨』という性質は、先行するブラフマン概念によって導かれたものでは必ずしも無く、おそらくゴータマ・ブッダ自身がその瞑想の深みにおいて自ずから『体現』的に自得したものをブラフマン神に投影したものだったのだろう。

ここに魚川祐司氏が言う『覚者の風光』の不思議さがある。瞑想実践の深み、ニッバーナにおいて完全な『捨』を体現した覚者も、しかしそこから出て日常に戻れば、身体と心を持つひとりの人間として生きていく現実は変わらない。

その時『捨』から発する『清浄光』というある種強力なエナジー(無量力)は、心身というスクリーン・フィルターを通過した瞬間に『慈悲喜』という『温もり』を宿して世界に向かって放射されるのだ。

それは正に、世界の創造者、すなわち性別を超越した『母』であるブラフマン神が持つだろう『一切衆生(被造者=子)に対する無私の慈愛』へと重ね合わされた。

それが四無量心である慈悲喜捨が『四梵住』つまり『四つのBrahma-vihara』と呼ばれた主意だろう。

ブッダはその慈愛の眼差しをもって世界を俯瞰し、その実情を理解した上で言う。

「13:耳ある者どもに不死の門』は開かれたおのが信仰を捨てよ」と。

ここで開かれた『不死の門』は、もちろん先の梵天の言葉「この不死の門を開け」という懇請に対応する完全な了解・同意を意味し、それは第一義的には、すでに言及した様に「出家弟子を指導し解脱者を輩出し、彼らを『対《悪しきバラモン(&悪魔)》戦』における戦士となして世界を滅亡の淵から救う」という高らかな宣言であり決意に他ならない。

最後の「おのが信仰を捨てよ!」という言葉。それは直接、この戦いの敵方である『悪しきバラモンたちが奉じる殺戮祭祀という悪法、それを支える誤った信仰を捨てよ、と彼らに宣戦布告をしていると理解されるだろう。

このように読み解いていくと、ブッダが開教を決意した背後には、確固とした『目的意識』があり、そして強靭な『使命感』があった事が浮き彫りになる。

その証拠に、梵天勧請後のブッダサールナートにて五比丘の教化、いわゆる初転法輪を為した事を皮切りに、次々と、主としてバラモンたちを、教化・改宗せしめて彼らの奉ずる『悪法』を駆逐し、自らの『正法』の宣布に邁進していく。

(五比丘もその出自はバラモンと言われ、その後ブッダに帰依・改宗したカーシャパ三兄弟の出自もバラモンであり、このような大量のバラモンを正しく教導する事こそが、ブッダの『社会改革(宗教改革)』の根幹をなすものだった)

彼の決意とその行動意欲は、以下の詩句にもよく表れている。

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

前掲書、スッタニパータより

国から国へと遍歴し、数多くの人々を教化していくというブッダの布教人生は、80才で死に至る正に直前のその瞬間にまで継続された。その背後に、悪しきバラモンたちに支配されて苦しめられている世界を善きものに変えんとする、『社会改革者』としての気概を読み取る、というのは穿ち過ぎなのだろうか。

もちろんこれらはパーリ経典に記録された文言であり、それはブッダの死後その弟子たちが時系列的な流れの中で証言したひとつの価値観であり世界観であるのだが、それが直接的にブッダ本人に由来するであろう事に、私はなんら疑いを持ちえない。

最後になるが、「9:あらゆる方向を見る眼のある方は、真理の高閣に登って」という梵天ブッダに対する語りかけについてだが、最初の「あらゆる方向に眼のある」という形容は、古くはリグ・ヴェーダにおいてヴィシュヴァカルマン(造一切主)を讃える表現に由来する。

これは以前にヴィシュヴァカルマン賛歌・車軸と胎児 - 脳と心とブッダの悟り - Yahoo!ブログ の投稿でも触れているので、その該当部分を以下に引用しよう。

リグ・ヴェーダ:ヴィシヴァカルマン賛歌~その1(10・81)

3.あらゆる方向に眼があり、またあらゆる方向に口があり、あらゆる方向に腕があり、またあらゆる方向に足があり(天地を生じるにあたって)両腕とふいごとによってそれを鍛えてつくった唯一なる神(Deva ekah)である。

「この第3詩句は有名で広義のヴェーダ聖典の諸所に現れている。この第3詩句においては、宇宙全体をひとつの身体ある有機体ないし人間の様なものと考えているから、この点では原人プルシャ賛歌と軌を一にしている。この起源をさらに追及するという事になると、後代の神話においては〈ブラフマンの卵〉なるものを考えるようになった」

ヴェーダの思想 中村元選集 決定版 第8巻 P411~414より

この世界の創造者にして『唯一なる神(Deva ekah)』であるヴィシュヴァカルマンの属性が、やがてプラジャーパティなどを経て創造者にして絶対者なるブラフマンに収斂されていく訳で、ここでは「ヴィシュヴァカルマン≦プラジャーパティ≦サハ世界の主ブラフマン神」という歴史的に継承された『唯一至高性』が、解脱したブラフマ・サマ(ブラフマンに等しい者)であるブッダに対して直に投影されている。

中村元博士が指摘する様に、この第三詩節が極めて有名な句だとしたならば、恐らくブッダの時代にも「あらゆる方向に眼があり~」という慣用表現が広く普及し知られていたのであろう。

もちろん、その後に続く「真理の高閣に登って」という形容は、直接的に最高天ブラフマンの宮殿を暗喩し、あるいはこの時点ですでに、その様なブラフマンの解脱境を指し示すものとして『須弥山の山頂』をも含意していた可能性もある。

以上の様に、今回投稿も含めこれまで本ブログで紹介してきた仏典に書かれた様々な表現、そして『物語』は、全てブッダブラフマン神との『同一視』がなければ成立しえないもので、ブッダが到達したニッバーナがイコールそのまま『ブラフマンの解脱境』であった事は、歴史的あるいは『思想・文化史的事実』として、まず間違いないものだと私は判断している。

現在のテーラワーダ仏教の論学では、この梵天は色界の最高処に住まう輪廻の内にある最高神』としてその地位が下落しているが、しかし、それこそが正に上に見られたようなヴィシュヴァカルマンやプラジャーパティが没落してブラフマンがその地位を奪ったのと同じ歴史が繰り返された『古代インド人のお家芸に他ならない。

そもそもはブラフマンと同一視され、その解脱の地位を共有していたはずのブッダが、しかし先にも説明したその『両界性』の優位を前提にブラフマン神をやがて凌駕し、遂には彼をして『輪廻の内にある色界の最高処』へと追い落としていった、思想史的な帰結なのではないだろうか。

あるいは、その様な『両界性』がブッダの死、すなわち『パリ・ニッバーナ』によっていわば『解消』され、彼自身が純然たる『完全な解脱(涅槃)』を体現した瞬間に、逆に人格神である梵天は解脱界から滑り落ちて、輪廻の内なる者として定位されたのかも知れない。

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これは本来は第一回投稿で明示すべき事柄なのだが、本ブログの主旨とは、ブッダの瞑想実践法の由来と根拠を2500年前の心象に即して解明し、その瞑想法がそのような心象を共有しない21世紀の現代においても何故『実効力』を持ち得るのか、と言う点を、『脳神経生理学的』に解明する、という事を目的としている。

この探求の焦点とは、本質的には『瞑想実践』それ自体にのみ存しており、それ以外の形而上学的な思想・心象というものは単なる『外堀』に過ぎないだろう。

しかし経典に採録されたブッダの言葉と言うものが、基本的にそのような思想・心象を背景にして初めて語られ得たものである以上は、それを理解する事が、その真意をあぶり出す為の必須前提条件となる。

その真意の、ひとつの核心を占めるものこそが、先に若干言及した、『内なる善き祭祀』としての瞑想実践、という概念に他ならない。

そこには仏道修行の二面性がある。ひとつは出家修行者個人を救済する解脱、という側面であり、もうひとつはその様な解脱者、あるいはそこに向かう途上の修行者自身が、瞑想修行と言う『内なる祭祀』を執り行う事に拠って梵天を頂点とする善神たちを活性化させ、世界と人々に幸福をもたらす『福田』である、と言う側面だ。

この点は、「何故覚りを開いた(ニッバーナに至った)ブッダ、あるいは比丘サマナたちが『アラハン』つまり『供養されるにふさわしき者』と称されたのか、という点と深く関り合っており、それはブッダの成道に先立つ『苦行』というものの実践思想的な位置づけとも関連してくる。

つまり『外的な祭式』至上を称える(悪しき)既成バラモンに対して、その批判的な対案として登場した苦行や善行、オームの単一念想、更には様々な坐の瞑想が、多かれ少なかれブラフマン神をその対象とした『内なる祭祀』であった」という視点だ。

(本ブログのこれまでの論述に従えば、そのような『内なる祭祀』をいわば『完成形』として明示したのが、ゴータマ・ブッダその人であった)

その起源・原像は、歴史的にブラフマン像を形成して来たウパニシャッドからプラーナそしてリグ・ヴェーダにまで遡る『宇宙創造に関する詩節』の中に全てが収斂されていくのだが、特にブッダの瞑想法の歴史的な成立事情を考えた時に重要な意味を持つ『苦行』と『禅定』において、このブラフマンを対象とした内なる祭祀』こそがその基本的なパラダイムを支える根幹を成すと私は考えている。

以下にその典型的かつ象徴的な宇宙創造詩節を、リグ・ヴェーダに見てみよう。

宇宙開闢の歌(リグ・ヴェーダ10 -129)

1:その時(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。

2:その時、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の兆候)。これより他に何ものも存在せざりき。

3:太初において、暗黒は暗黒に覆われたりき。この一切は標識なき水波なりき。空虚に覆われて発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力(Tapas)により出生せり(生命の開始)。

4:最初に意欲(Kāma)はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。

リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫) 辻直四郎訳より

ここには『呼吸』というブッダの瞑想法(あるいはヒンドゥ・ヨーガの瞑想行法)の根幹に位置するもの、『熱の力(Tapas)』という苦行(タパス)の根幹に位置するもの、そして『カーマ(欲、または愛欲)』という遠離すべきものの根幹に位置するものが、実に意味ありげに(笑)順次列挙されている。

ここで『唯一物』と呼ばれているものこそが、後の『創造者(絶対者)ブラフマンの原像であり、ゆえにその『原初の一者であるブラフマン』の原点に『至る』為に最重要な意味を持つキーワードとして、正に上の三つが把握された、というのが私の読み筋になる。

もちろん、上の詩節は膨大な思索・探求の蓄積としての『宇宙創造観・ブラフマン観』のほんの一端に過ぎないが、しかしひとつの象徴的な起源であり、極めて示唆に富んだものだ。

そろそろ2万字に近づいている。以上をもって次回への接続・導入部として、今回はこの辺りで切り上げたいと思う。

興味のある方は是非、上の詩節をじっくりと味わい、これから私が何を語ろうとしているのかを先読みしてみて欲しい。

ヒントはこれまでの投稿の中にも伏線として満遍なく散りばめられているので、注意深い読者なら、すでにこれからの展開を予想されているかとも思うのだが…。

もしもこの世界が『苦』に満ちているのならば、『苦』を不可避的に背負わされた『創造』の瞬間のそれ以前の段階、つまり原初の独一の一者であるブラフマンが、未だ『世界』を展開・創造せずに『唯独り』そこにある段階、にまで、疑似的にでも「時間を巻き戻す事が出来たならば」

『苦』は消滅する。

『世界』と共に

『四梵住』とブラフマ・チャリヤ【後編】 - 仏道修行のゼロポイントより

~次回に続く。

 

(記事内容については、投稿後一週間くらいはその細部を地味に加筆・修正する可能性があります)

 

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本論考は、インド学・仏教学の専門教育は受けていない、いちブッダ・フォロワーの知的探求であり、すべてが現在進行形の過程であり暫定的な仮説に過ぎません。もし明らかな事実関係の誤認などがあれば、ご指摘いただけると嬉しいですし、またそれ以外でも真摯で建設的なコメントは賛否を問わず歓迎します

また、各著作物の引用については法的に許される常識的な範囲内で行っているつもりですが、もし著作権者並びに関係者の方より苦情や改善の要望があれば、真摯に受け止め適切に対応させていただきます

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