古代インドの心象世界
バラモン教の不法な動物犠牲を伴った『外なる祭祀』に対する、批判的代替として提示された『内的な祭祀』としての比丘サマナの苦行や瞑想行。そのような視点で、ここまで考察してきた。 その流れで、前回投稿の最後には、 そこで最初に焦点になるのは、『内…
『祭祀の内部化』という前回までに取り上げたテーマは、ブッダの瞑想法とそれに至る沙門シッダールタの内的遍歴を考える上で極めて重要な意味を持つものなので、繰り返しを恐れずに念を押していきたい。 バラモン教とは祭祀の宗教だった。 その祭祀とは、第…
ジャイナ教の開祖マハヴィーラなどに代表されるサマナ修道者が好んで行った苦行や、ブッダの瞑想行法が、バラモン教的な『外的祭祀』の代替となる『内部化された祭祀』だった、と前回までに書いた。 この点に関して、まずは典拠を示して、『内なる祭祀』とい…
賛歌と言うバラモン教的な『瞑想実践』に対するオルタナティブとして提示されたのが『ブッダの瞑想法』であり、『賛歌のデバイスである(ヴィーナとしての)ウドガートリ祭官の身体』は『瞑想のデバイスである(ヴィーナとしての)比丘サマナの身体』と、完…
頭蓋内部には明確に車輪と重ね合されるような構造が存在し、その事実をシッダールタたち古代インドの求道者は知っていた可能性が高い。そう私は前に書いた。 今回はその根拠について若干追記して述べよう。 6本スポーク状に仕切られた脳内 当時、シッダール…
ここまで私は、パーリ経典における数少ない実践的な瞑想ガイダンスの中で、最も重要なフレーズとして、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā(Maha Satipatthana Sutta)顔の周りに思念(サティ)をとどめて(春秋社:原始仏典Ⅱ)fixes his awareness in the area…
今回は最も根源的かつ素朴な疑問から話を始めたい。それは、そもそもインドにおいて『瞑想』という時、その名称と営為はどこに起源するのか、という問題だ。 これについてはこれまでにも何回か取り上げたが、インダス文明の遺跡で発見された印章の彫刻に、ヨ…
牛が「モ~」と鳴く時、その啼いている姿の全体像は、全身が一本の共鳴管、あるいはラッパの様に、腹腔・肺・気道・咽喉・口腔が一直線の管になったかのようにして、そのモ~という声を鳴らしている。 前二回にわたって、牛が鳴く姿と絡めて“Mukha”という言…
(本投稿には解剖学的画像が含まれます) 前回私は、『コップと言うものの本質とは一体何だろうか?』と設問し、その答えを例示した。それはすなわち、何らかの液体の容れ物である事を可能たらしめる "開口し奥行きのある空処性" だった。 同じように "Mukha…
ブッダの瞑想法の原像を復元するに際して、もっとも重要であると考えられるパーリ経典の文言は、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā顔(口)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて というものであり、中でも気づき(サティ)のポイントを明示するものとしてpa…
(※本投稿には解剖学的な画像がふくまれます) 本ブログではこれまで、インド思想の核心とも言える「苦である輪廻からの解脱」、その立脚点である苦、すなわち『ドゥッカ Dukkha』という概念が、『車輪』という事物と密接に関わって生まれたという事実を繰り…
パーリ経典の多くで共有されている『サティを顔の周りに留めて坐る』という一節。繰り返し述べて来た事だが、これはブッダの瞑想法の原像について考究する時に、もっとも重要なものだと私は見ている。 ゴエンカ・ジーはこの『顔の周り=parimukham』を “口の…
前回は沙門シッダールタが遂行した激しい断食行の諸相について書いた。この断食行を含む三つの苦行経験があってはじめて、沙門シッダールタは覚りへと至る「道筋」あるいは『方法論』を直観し得た、という流れだった。 この「断食の行法」について記述した章…
馬の調御と出家比丘の修道プロセスが重ね合わされたパーリ経典、『若い駿馬の喩え:中部経典第65経 バッダーリ経』に続いて、象の調御と出家比丘の修道プロセスを重ね合わせた、中部経典:第125経『調御地経・・・しつけられた者がいたる段階』について、前…
今日は前回の象つながりの流れで、象の調御と比丘の修行をドンピシャで重ね合わせたパーリ経典を紹介したい。 岩波文庫版のパーリ経典シリーズを何回も精読した末に、一見荒唐無稽なセーラ・バラモンの「広長舌相」のエピソードに注目し、それがインド女性の…
ブッダの瞑想法、その導入部に当たるアナパナ・サティにおける気づきのポイントが、動物の調教における『急所・焦点』である鼻先、額、耳、口、と重なり合っていて、それらが、パーリ経典の中では『顔の周りに思念を留める』というひとことで表現されていた…
眉間の急所を万が一の緊急ブレーキ(欲動のキル・スイッチ)として、耳たぶの裏から後頭部にかけての触覚刺激をハンドルやアクセルとして、象使いは象たちを様々なシチュエーション下で見事に調御し、操縦する。 そして、これら象の調教における急所のポイン…
前回は、ブッダとセーラ・バラモンとの間で起きた「広長舌相」のエピソードの流れから、牛を調御する『急所』について考えて行った。 牛を調御する急所は鼻の穴であり、その牛の鼻を捕まえて調御する譬えが、パーリ仏典にも存在する。 そこにおいて、穀物を…
前回までに、セーラ・バラモンとの対話でブッダが「舌をもって耳と鼻と額を舐めた」という、広長舌相のエピソードについて、様々な角度から考えてみた。 ブッダが舌で舐めたと言う耳と鼻と額が、インド女性がピアスとビンディを付ける部位と重なると言う視点…
私は2012年頃からパーリ経典を読みつくそうと発心して、まずは以前から持っていた岩波文庫の中村元訳シリーズを読み切り、続いて春秋社版の原始仏典シリーズを読み進めていった。 何故か相応部のⅡの方から入ってしまい、全6巻を読破。続いて長部と中部を収録…
パーリ仏典において愛執・渇愛・妄執・煩悩・愛欲、であるところの “つる草” と喩えられているものとは、実は私たちの身体全身に “はびこって” いる血管ではなかったか? それが前回までの論旨だった。 私たちの全身には、血管の網の目がはびこっており、特…
前回に引き続き、今回も中村元先生の選集「ヴェーダの思想」より引用しつつ、古代インド人がイメージしていた『世界の創造』について、色々と考えていきたい。 アーリヤ人は、知識程度が高まると共に、宇宙はどのようにして創造されたか、という問題に思いを…
これまで私は『輪軸世界観』というものが、如何に汎インド教思想の根幹を支える重要なものであるか、という事についてくどいほど言及して来た。 今回は、インド教世界の中で長きにわたって論争が繰り広げられてきた「一元論・二元論」と『輪軸世界観』、とい…
前回私は煩悩の現場である六官の門に顕著な体水と体毛と、そこにおける『触』について論じ、それが瞑想実践の具体的な作用機序とも密接に関わりを持った、とても重要な部分だ、と示唆した。 今回はそこに登場した植物の喩えと脳髄との関係性から入って、もう…
前回までに私は、 苦悩の現場=脳髄、という認識は現代に生きる私たちにとって自明な事柄である、というだけでなく、古代インド人にとっても、その日常経験に従って、主観的に極めて自然な、当たり前の自明の理解だった。 と書き、そして、 パーリ仏典におい…
私たちの心の背中には、眼耳鼻舌身意の六官(六処)を出先機関とした大脳辺縁系というオンブお化けがしがみついていて、私たちの身口意のすべての行いを操っている。 以前の投稿で、私はその様に書いた。 そしてこの辺縁系によって惹起される激しい情動は、…
これは本来、「瞑想実践の科学」シリーズの冒頭に置かれるべきものだが、今回は最初に一枚の画像を見て頂く。それは脳底を下からのぞき込む形で視認した脳幹部の画像だ。 Wikipediaより:脳底部から見た脳幹と脳神経分布 これはいわゆる「脳神経」について解…
前回、私は以下のように書いた。 音節(シラブル)の中心となるのは母音だった。詠唱を構成する基本単位である音節の、さらに中心となるのが母音になる。 そしてオーム(AUM)が実際にヨーギやバラモンによって唱えられるのを聞くと「おぉーぅM」という感じ…
前回の流れで、聖音オームと絶対者ブラフマンの同一視について考えてみたい。 以下、中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P40~ 抜粋 ヴェーダ祭儀における祈祷の文句は、聖音(オーム)のうちに集約的に表現されている。祈祷の文句をつづけて唱える場合に…
これまで私は、『ブッダの言葉』をはじめとした岩波文庫版パーリ仏典シリーズを、各巻4~5回以上は読んでいるのだが、初めて読んだ時から更に回を重ねても、しばらくの間まったく理解不能だった一節がある。 何しろ、2500年前の人々が口承で伝えた文言を、…