仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ラタ戦車を駆るアーリア・ヴェーダの民と『聖チャクラ(車輪)』

インド人にとっての輪軸のアナロジーがもつ重要性とその意味を、本当に実感を持って理解するためには、まずは車輪がインドにおいてどの様な存在だったかを、様々な角度から理解しなければならないだろう。

それにはまず、歴史的な理解が必要だ。この木製スポーク式車輪を開発したアーリア人の祖が、どのようなプロセスを経てインドまでたどり着いたか、そのリアルな生活実感に思いを馳せる事だ。

インド文明は、侵略者アーリア人の文化・思想と、侵略された先住民の文化・思想が融合して、今日に至る複雑・深淵な歴史と文化を生み出してきた(中世以降のイスラムの影響については、取りあえずここでは触れない)。ブッダの時代は正にその融合する化学反応の真っただ中にあった。

アーリア人にとって、自ら創造したスポーク式車輪とは、正に彼らの他民族に対する優越性を象徴するシンボルだった。彼らはこの優れた最新鋭の車輪を履いたラタ戦車を駆って、中央アジアの大平原から西ユーラシア全土に進出していった。

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エジプトを席巻したラタ戦車は、ファラオの象徴となった

エジプト、ギリシャを初めとした地中海世界、そしてトルコ、ペルシャなど彼らの車輪の轍の下に屈服しなかった土地はなかった。そして彼らの分隊は遥かに東征し、やがてカイバル峠を越えてインド亜大陸にも侵入した。

その間、故郷であるコーカサス北部の大平原からカイバル峠までのおよそ7000㎞を数百年かけて定住と移動を繰り返し続けた彼らにとって、旅は生活そのものであり、旅の足となるラタ(戦車、馬車、牛車)は何よりも日常に密着した相棒だっただろう。

コーカサス北部から中央アジア周辺に、彼らの旅路の痕跡とも言える遺跡が多数発見されている。それは彼らがチャクラの民であった事をまざまざと物語っていた。それがシンタシュタ-ペトロヴカ文化だ。

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赤い部分がシンタシュタ文化の中心エリアで、ピンクがスポーク式車輪の発見エリア。オレンジは後継文化の広がりで、緑のBMACエリアを通じてインドに繋がっている。

シンタシュタ-ペトロヴカ文化とはロシア南東部チェリャビンスク州にある村の名前に由来し、アーリア系の部族集団によってBC1800年前後の数百年にわたって発展継承された文化コンプレックスだ。

それが直接インド・アーリア人の祖先であったかは論議の的だが、インド・アーリア人と同じ母集団から派生し、文化的な起源を共有する事は間違いない。

シンタシュタ文化を特徴づけるもの、それがチャリオット葬と呼ばれる独特な埋葬法だ。これはラタ戦車と馬をその主と共に埋葬する方法で、世界最古のスポーク式車輪をはいたラタ戦車がここで発見された。

これはヴェーダの時代にインド・アーリア人によって盛んに行われたアシュヴァ・メーダ(馬祀祭)の祖形だと考えられている。

そしてこのシンタシュタ・コンプレックスの中に、本ブログの文脈上特筆すべき遺跡が存在している。それが1987年にチェリャビンスク市の調査団によって発掘されたアルカイムの城塞都市だ。

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アルカイム遺跡の空撮。Арҡайым — Башҡорт Википедияһыより

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環状城塞都市の立体モデル。Arkaim – Russian Stonehenge | MYSTICAL RUSSIAより

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城塞都市の設計プラン。二重円環構造はマンダラ・シティとも命名された。Arkaim -- The Russian Stonehenge « National Vanguardより

これは直径100~200mほどの堀を巡らした環状の土塁の上に、木製の柱や梁で建てられた城塞都市で、写真や図形を見ると一目瞭然なのだが、明らかに車輪のデザインを彷彿とさせる形をしている。

チャリオット葬と合わせて考えれば、まず間違いなく、これはチャクラ・シティ(車輪都市)だったと私は考えている。おそらく天の車輪と対置する大地の車輪、そしてそこに住む人間の生活をこのような車輪の形を模した都市によって表したのだろう。

アルカイムの遺跡は、研究者によってインド・アーリア人による最古の都市遺跡と認定されている。

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シンタシュタ-アルカイムの城塞都市群スケッチ。明らかに同一プランで設計され、車輪との関連が推定できる。ロシア語の研究サイトより

彼らは太陽を中心とした天体祭祀を行っていたという報告もあり、この環状都市の形は何らかの意味で天体観測と関係していたかもしれない。またこの祭祀に関しては、リグ・ヴェーダにおける太陽神群との関連も指摘できる。

ひょっとしたらシンタシュタ文化の城塞都市群は、チャクラ・シティであると同時に、太陽神を崇めるスーリヤ・シティだったのかも知れない。

(この都市が中心広場を核とした祭場都市であった可能性については次回以降に詳述)

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日輪(太陽・スーリヤ)と車輪は重ね合された。Sun in the sky #1756971より

リグ・ヴェーダには多くの太陽神が登場するが、アーリア人の東征との関わりでは、曙光(朝焼け)の神ウシャスが注目される。

『繰り返したち返る光明は、暗黒より離れ、東方に現われたり~輝かしき天の娘ウシャスらは、人間に道を開かんことを

『ウシャスは常に輝きぬ、今またさらに輝かん、車両を躍動せしむる女神は』(辻直四郎訳)リグ・ヴェーダより

彼らにとっての民族的アイデンティティはラタ戦車であり、他民族に対する優位性の源であるスポーク式車輪は、その象徴であった。そして、怒涛のように戦場を駆け巡る戦車の威力、その回転する車輪のデザインと力強さが、天空を巡り輝く太陽のイメージと重なり合い、ここにラタ戦車で天空を駆け巡る太陽神のイメージが出来上がったのだろう。

そして、太陽の生まれいずる場所、力と豊かさの源である東天に対する憧れが、彼らをして更なる東征へと駆り立てていったのかも知れない。

ラタ戦車を駆ってカイバル峠を突破したアーリア人の軍団は、インド亜大陸においても先住民をあっという間に征服した。正に向かう所敵なしという自らの偉大なる武威を神の威光と重ね合わせて、彼らはリグ・ヴェーダにおいてさらなる神々の讃歌を歌い上げた。

ウシャス以外にも主神格のインドラをはじめ、太陽神ヴィシュヌ、アディティヤ、スーリヤなど実に多くの神々が、この讃歌の中でラタ戦車に乗って天空を駆け巡る姿で描かれている。

七頭の黄金の駒は、汝を車(ラタ)に乗せて運ぶ、スーリアよ、炎を髪となす汝を、遠く見はるかす神よ」

リグ・ヴェーダ、スーリアの歌、辻直四郎訳 

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太陽神スーリヤは7頭立てのラタ戦車に乗る

これら武威と神威を象徴する形こそが、木製スポーク式のチャクラ(車輪)だった事はすでに触れた。それと対置する形でインダス先住民の聖チャクラ文字が存在したのだが、この時点ではそれはまだ顕在化していない。

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コナーラクのスーリヤ(太陽神)寺院。その巨大な車輪は神威を表すシンボルだ

次に重要なのは、アーリア・ヴェーダの民にとってこのような歴史背景を持つ車輪という文明の利器が、その後の古代インドの社会生活の中でどのような意味を持っていったか、と言う視点だ。

アーリア人の聖なる車輪は、同時に世俗的日常生活において、文明社会の繁栄を象徴する重要なシンボルになっていった。これは特に、彼らがインドに定着し、社会経済が発展し、クシャトリアを中心にした都市文明が花開いていたシッダールタの時代には顕著だった事だろう。

ラタ戦車はやがて戦場の最前線からは後退し、紀元前4世紀頃には象部隊に、その後は騎兵などにとって代わられるが、それは常に、クシャトリアつまり戦士階級の武勇と王権の繁栄を象徴するシンボルであり続けた。

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ラタ馬車に乗って行幸するアショカ大王。サンチーのトラナより

一方、商工業者や農民にとって、輸送手段としての牛車は日常必需品であった。農村の道を、そして都市をつなぐ街道をこれらの車輪が行き来する姿は、正に社会経済の繁栄を象徴する風景だった(それは現代においても基本的に変わらない)。

躍動する車輪の姿は、古代インドの人々にとって、聖俗共にあらゆる階級において欠かせないものであり、文字通り生活の中心にあって常に回転しているものだったのだ。

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古代のものとほとんど変わらない車輪が、今もインドでは生きている。車輪は表に立って華々しく回転するが、車軸は静かに目立たない

最後に重要なのが、車輪についての構造的・機能的な理解だ。すでに指摘したように、紀元前2000年頃アーリア人によって創造されたというこの木製スポーク式車輪は、それまでの板を張り合わせて円盤状に作った鈍重な車輪とは根本的に違っていた。

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Construction of chariots begins for Puri Ratha Yatraより。ラタ・ジャットラ祭の山車の車輪を作る、現代の工巧神たち。精緻に加工され華々しく展開する車輪は単なる丸棒に過ぎない車軸とは対照的だ

それは、高度な加工技術と数学的な知性を前提に、ハブ、スポーク、リム(タイヤ)というパーツをそれぞれバラバラに作り上げ、それらを精緻に組み合わせることによってはじめてその姿を現す。

そこにおいてもっとも大切なのは、車輪が持つ真円の完成度と中心車軸の揺るぎなき中心性だ。車輪の真円性が歪んでいたり車軸の中心性がずれていたら、車輪の回転はボコボコに揺らぎ、その乗り心地は最悪になる。

リグ・ヴェーダには、この車輪の製造に関わるトゥヴァシュトリ(工巧神)に対する言及も多く見られる事から、彼らにとって車輪の完成度が重要な意味を持っていた事がうかがい知れる。

そしてこの真円性と中心性を正にその中心において支えるのが、一本の車軸に他ならない。それは車台の下に隠れ、そこに固定されてまったく動かず、車輪の華々しい動きと形に比べ、とてつもなく地味でシンプルな存在だ。

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車軸は一本のプレーンな丸棒(丸太)に過ぎない。Rath-Yatra-18 - Rath Yatra Live from puriより

しかし、この車軸がなければ、車輪は決してその働きを全うしない。車台を引く馬がいて、車台があり、車輪があったとしても、車軸がなければそれらは全く何の意味も持たないのだ。

一本の丸棒に過ぎない車軸こそが、車輪の中心にあってそれを回転せしめる主体である。この事実を、私たちは深く深く、理解すべきだろう。何故ならそれはインド思想の中心命題とも言える『ブラフマン』とも密接につながり、ひいては『仏道修行』とも深く関連してくるからだ。

ゴータマ・シッダールタをはじめ古代インド人は、車輪という機構における真円性や中心性の大切さ、そして車軸という一見目立たないパーツの重要性を深くわきまえていた。それは、車輪を実際に作る職人以外の一般人にとっても、文字通り一般常識だった。

何故なら、これらのバランスが崩れた車に乗れば、それは即座に乗り心地を損ない、積み荷や乗員に影響し、ひいては農商工者の経済活動に、そして戦士の戦いに直接ダメージを与えるからだ。

この点に関しては、古代エジプトにおいて、ナイル川を上下する帆船が人々にとっていかに重要な意味を持っていたかを想起すれば、理解できるだろう。

この帆船は、やがて太陽の船として、死後のファラオの魂を神々の国へと運ぶ大いなる神船として崇められるようになる。正に古代インドの人々にとって、ラタ戦車は太陽(神)の車駕であり、車輪(チャクラ)はそのシンボルだったのだ。

古代エジプトが太陽の王国なら、古代インドはさしずめ神聖チャクラ帝国だったと言っても言い過ぎではない。

この様な背景をリアルにイメージした上で、インドの思想について、私たちは思いを馳せなければならない。それをスルーしてしまえば、インド的な輪軸のアナロジーの真意を理解する事は決して出来ないし、ひいては、仏教そのものに対する理解も、表面的なものに終わってしまうだろう。

インド文明における、チャクラ(車輪&車軸)思想の重要性。それはおそらく、仏教に携わる学者や僧侶、そして様々なインド学領域の研究者たちの間でも、ほとんど認識されてはいない事実だ。

その状況を覆す。それが、ゴータマ・ブッダが生きた心象世界とその修行実践について理解を深める第一歩になる。そう私は考えている。

(本投稿は、脳と心とブッダの悟り: 神聖チャクラ帝国 と 脳と心とブッダの悟り: 最古の都市、チャクラ・シティの民 を加筆修正の上、移転したものです)

 

 

 

 

世界の車軸(支柱)としての『ブラフマン=至高神』

『あらゆるインド思想の核心には、車軸と車輪のアナロジーが潜在している』

そう言ってもたいていの人にはいまいちピンとこない事だろう。

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車軸と車輪の構造デザイン・機能は、インド思想の核心だ。Rath-Yatra-18 - Rath Yatra Live from puriより

インド武術の研究からインド思想へとシフトし始めた頃、私は「新幹線の車輪」なる写真を偶然ネット上で発見し、何か感じるものがあってパソコン上に保存した。 

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新幹線の車輪と車軸(筆者撮影)

それは上に掲載したように車輪が地面に対して垂直に立ち、車軸は地面に対して水平に伸びている姿で、新宿西口のとあるオフィスビルの玄関口に飾られているものだ。

それがある時、誤ってこの画像を90度回転させてしまった。その結果現れた姿が、下の車軸が垂直に立ち上がった、輪軸の構図だった。 

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90度回転させて車軸が直立した車輪

インド世界について、ある程度知っている人がこの写真を見れば、誰しもが思い出すだろう造形がある。それがシヴァ・リンガムと呼ばれるシヴァ神御神体だ。私も上の写真を見た瞬間にこれを思い出して、文字通り「アッ」と声にならない声を発していた。 

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シヴァ・リンガムは輪軸の顕われ

当時の私は、ある文脈の中で「何故マハトマ・ガンディはいつも杖を持っているのか?」というなんとも素朴な疑問を持っていた。彼の肖像は老年期のものが多く、その手に握られたトレードマーク的な棒は、普通に老人が歩行を助けるための杖だと考えられがちだが、実はもっと若い頃の肖像画にも、棒を持ったものが見られるのだ。 

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杖を手にして遊行するガンディー翁

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まだ壮年と言って良いガンディー。手にはやはり棒を持っている(サバルマティ・アシュラム)

その後の取材で、ガンディ翁の手にする棒が、ヒンドゥ教徒の男子にとって特別な意味を持つ聖杖ダンダである事が分かって来た。

曰く、インド人にとって、特に農村に住む清く正しいヒンドゥの男にとって、棒(杖)とは特別な意味を持つ存在だという。ガムチャやターバンなどの布か、トピーと呼ばれる帽子を頭にかぶり、クルタ・シャツを着てドーティを腰に巻き、チャッパルを足に履いて、そして手には棒を携える。これが由緒正しいインドの男たるべき正装らしい。彼は傍らの棒を誇らしげに掲げながら、「これは、ダンダなんだ。」と言った。

チャクラの国のエクササイズ:ガンディ翁と聖なるダンダを参照。

さらに、この敬虔なヒンドゥの男子が手にする聖杖ダンダの背後には、様々な心象が横たわっている事が分かってきた。

一方で、ダンダは神につながる行者の属性としても重要になっていった。ヒンドゥの修行者と言えば、オレンジやサフラン色のローブをまとったサドゥが有名だ。彼らが世俗の生活を捨て、グルジー(老師)の元で出家する時に与えられるのもまた、一本のダンダと、水を入れる金属製のポットだった。ヒンディ語では『ダンダをつかみ持つ』という意味の『ダンダ・グラハン・カルナー』という言葉が『出家』を意味するという。常にダンダを携えて遊行するサドゥの姿は、聖なるインド世界を象徴する原風景となった。

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ダンダを持つ出家のサドゥ

チャクラの国のエクササイズ: ガンディ翁と聖なるダンダより

だがその時は、このダンダが持つ本当の意味が理解できてはいなかった。その意味を発見する決定的なヒントになったのが、正にこのシヴァ・リンガムと重なり合う新幹線0型車両の輪軸、との出会いだったのだ。

シヴァ・リンガムは二つのパーツによって成り立っている。ひとつは男性最高神シヴァを、その男根で象徴したリンガと呼ばれる短い柱状のもので、もうひとつがシヴァの配偶神である女神シャクティを、ヨーニと呼ばれる女陰で象徴する円盤状の部分だ(実際はゴームカという排水溝がつくので印象は少し変わる)。 一般にシヴァ・リンガムは石を刻んで作られ、先に立てられたリンガに下から貫かれる形で、ヨーニが上にはめ込まれる。

そして、このリンガとヨーニが合体したシヴァ・リンガムが祀られる寺院の神室は、シャクティ女神の子宮を表し、寺院自体が、騎乗位で夫シヴァにまたがり交合するシャクティの身体を表している。

何故、騎乗位なのか? それはほとんど動かずに受動的にいるシヴァに対して、能動的に躍動するシャクティのダイナミズムを象徴している。そしてその背後には、ヒンドゥ・サーンキャ的な二元論が潜在していた。

サーンキャ哲学、それはヴェーダ六派哲学のひとつで、紀元前に実在した聖仙カピラを師祖とし、西暦200年頃に著された『サーンキャ・カーリカー』を聖典とする。ヨーガやアーユルヴェーダなどとも密接に関わり、現代にいたるヒンドゥ的人間観、世界観に最も重要な基盤を与えている思想だ。

それによれば、純粋精神であるプルシャはそれ自体静的であり、輪廻する物質的な現象界とは無縁だ。プルシャに対置する根本原質プラクリティこそが物質的現象界の展開力であり、プルシャの観照によって両者が結び付く事で世界は展開する。そしてプラクリティから展開した自我意識(日常的な心)が、純粋意識のプルシャへと目覚める事によって、人は解脱するという。

プルシャは同時にアートマン(真我)であり、私たちの世俗的な、それゆえ多くの執着や苦悩にまみれている心が、本来の純粋精神であるアートマンへと回帰することで、輪廻の束縛から解放され真の救済を得るのだ。

もちろんこの前提になるのが、車軸と車輪のアナロジーであるのは言うまでもない。ラタ戦車の車台に固定され、それ自体は動かない車軸はプルシャ(男性形)であり、そこに嵌められてダイナミックに転回(展開)・躍動する車輪はプラクリティ(女性形)を表している。だからこそ、現象世界は『輪廻』するのだ。

そしてこのプルシャとプラクリティの関係性を、そのまま発展させたのが、シヴァ・リンガムになる。だからこそ、シヴァは静的であり、シャクティはダイナミックに躍動するのだ。

シヴァ・リンガム。それはゴームカ(牛の口)という排水溝をつけた円盤状のヨーニ(女陰を表す)の上に、短い円柱状のリンガ(男根を表す)が屹立したもので、男性原理であるシヴァと女性原理である神妃パールヴァーティ(シャクティ)が合一している姿を象徴し、あまねくインド全土でシヴァ寺院のご神体として崇められているものだ。

だが、これまで聖なる車輪とはイコール、スポーク式車輪だと思い込んでいた私にとって、スポークのデザインを持たずしかもゴームカの存在によって印象を変えられたヨーニの姿は、完全に盲点となっていた。

ナタラージャの造形だけではなく、ど真ん中とも言えるシヴァ・リンガムそのものが車輪の現れだったのか?私の頭は一瞬の衝撃と混乱から立ち直りながら急速に回転し始めていた。

私は今まで、車輪と車軸を分けて考える視点を、実は持ち合わせていなかった。平面的な造形デザインとしてそれを見た場合、大柄で見栄えのする車輪に比べ中央の車軸はほとんど目立たないからだ。

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中央に法輪を掲げたインド国旗

例えば上のインド国旗に描かれた法輪を見た場合でも、はたして中心にあるドットが車軸なのか、それとも車輪の中心にあって車軸を通すハブなのか、はっきりしない。

またインドの田舎で今でも現役で活躍している昔ながらの牛車などを見ても、車軸は荷台や車輪に隠れてほとんどその姿を見る事が出来ない。

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車軸の存在感は極めて希薄だ

そんな訳で私にとって車軸の存在は完全な盲点になっていた。だがそんな目立たない車軸のイメージが立体的なリンガと重ね合わさった瞬間、それはとてつもない存在感を放ち始めたのだった。

チャクラ思想の核心:車輪の中心にあって、それを転回せしめる車軸 より

そしてこの『車軸の発見』が、ガンディ翁の持つダンダについての、核心に迫る発見をもたらす事になる。

車輪の中心にあってそれを回転せしめるもの。この時の私にとって、シヴァ・リンガムが車輪の造形かも知れないという発見以上に、『車軸』そのものの発見の方がより大きな意味を持っていた。

考えてみれば、私はすでにチャクラ・デザインについて第三章でこう語っている。

『中心から放射状に展開するデザインは、根源である神(原初には太陽)から世界のすべてが展開する摂理を表していた。それが瞑想時には放射状のデザインを逆にたどって、日常に拡散する人間の心を中心である神へと集中させていく』と。

この時点では車軸がそこにあるなどとは露ほども気づいていなかったが、その存在に気づいてみれば、車輪の表象において、その中心にある車軸こそが神を表すのはごく自然な話だった。

そしてさらなる衝撃は続く。

シンプルな丸棒である車軸、という言葉に微妙な違和感を覚えて何回か復誦していた私は、ハタと気付いたのだ。この車軸を、車台から外して手に持てば、それはすなわち、

『聖杖ダンダ』に他ならないではないか!

車軸である一本の丸棒は、同時にダンダでもある。これがとどめの一撃だった。これこそが、チャクラ思想の真の『核心』ではないのか。

チャクラの国のエクササイズ: 車輪の中心にあって、それを転回せしめる車軸 より

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聖杖ダンダを右手に、聖チャクラ(車輪)を左手に持つヴィシュヌ神。ダンダは世界の支柱(車軸)であるヴィシュヌ自身を表している(ヴィシュヌ派においては彼こそがブラフマンである)

実は、聖なる唯一絶対者=至高神を車軸と見立て、現象世界を車輪と見立てる思想は、シッダールタが生まれる遥か以前からインド世界に普遍的に浸透していた。もちろんその背後には、アーリア人が駆使したラタ戦車の車輪がある。

インド・アーリア人によって編纂されたリグ・ヴェーダには、以下のような世界観の表明が確認できる。

アーリヤ人は、知識程度が高まると共に、宇宙はどのようにして創造されたか、という問題に思いを馳せるにいたった。 

宇宙創造に関する当時の見解は、きわめて大まかに分けるならば、だいたい二種に区分することができる。ひとつは宇宙創造を出生になぞらえるもの、他は建造に比較するものである。 

前者の例としては神々のあいだに親子関係を認め、能生所生の関係を構成していると考え、また天地自然が種々なる神々から生み出された事を説いている。創造は自分の〈生む〉はたらきとしてしばしば言及されていて、根源としての質量からの生産と発展とに言及している。 

後者の例としては、神々が天・空・地を測量してその広さを増し、天地を支柱によって強固安定させたという事が、しばしば称賛されている。 

後者は宇宙創造の動力因を質量から切り離しているのに対し、前者はその二つを同一の原理に帰している。 

(以上、中村元選集:「ヴェーダの思想」P397~398より抜粋引用)

『宇宙の形に関しても明確な描写は存しない。ただ一回、これを重ね合わせた二個の鉢に譬え、また車軸によって車輪を支えるようにインドラは天地を引き離した(RV.Ⅹ,89,4)ともいわれている点から見ると、地表を円形と考えていたらしい。天地は併称されることが多く、「二個の半分」と考えられているが、そのあいだの距離についてはなにも記されていない。(同P451)』

ここには極めて重要な事実が含まれている。 

インドラというのは、当時インド・アーリア人にとっては最高神格に近い存在で、リグ・ヴェーダの讃歌の内およそ四分の一が彼に捧げられたものだった。 

そのインドラが「あたかも車軸の様に、天地を二つの車輪の様に引き離し支えた」、というのは一体どういう事だろうか。 

一般にインド・アーリア人の祖先は中央アジアから南ロシアにかけての大平原地帯に発祥し、その文化思想を育んだと言う。大平原であるからこそラタ車の車輪が移動や戦争において著しい優位性を持っていた訳だ(逆に言うと急峻な山岳地帯では車は発達しない)。 

このような大平原地帯では、この世界は第一感どのように把握されうるだろうか。目地の届く限り遮るもののない大平原の真ん中に立って世界を360度俯瞰したならば、それは湾曲する地平線を外縁とする円輪として把握されたのではないだろうか。 

そしてその円盤状の大地の上に広がる天(この場合は太陽や月、星が運行する場であり、同時に神々が住む)もまた、同じように円盤状(もしくはドーム状)に把握されたのだろう。

やがてこの上下二つの円盤状の大地と天は、彼らにとって最も身近な車輪という存在と重ね合された。 


North Celestial Pole Star Rotation 天の星辰は北極星を中心に車輪の様に回転する

しかし天はなぜ大地から分かたれて落ちてこないのだろうか。そんな思いが彼らの脳裏をかすめた時、車輪とのアナロジーも重なり合って『二つの車輪を分かち支えるものとして偉大なる車軸がなければならない』という発想が生まれたと考えられる。 

一般にインド・アーリア人にとって最も重要だったラタ戦車は私たちに身近な四輪車ではなく、一本の車軸によって左右二つに分かたれた二輪車になっている。 

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本ブログではおなじみのエジプトの古代戦車。インド・アーリア人のラタ戦車にもっとも近い原像。 

このラタ車の輪軸の構造がそのまま直立されて、天地上下の二輪になった。これが『二個の半分』という事なのだろう。そして、何か神的な車軸である超越者によって、この上下二輪である天と地が分かたれつながれ、そして支えられた。これがラタ戦車の民である彼らの、素朴な直観だったと考えられる。 

当然車軸を立てれば、それはもはや柱と呼ぶべきだろう。しかもそれは、この広大なる天と地を分かち支える柱だから、これも人知を超えた巨大な柱になる。 

この神的な大支柱については、すぐ次のページにある『天地讃歌』に以下の様に記述されている。 

『活動的な神々のうちでももっとも活動的なこの神は、万物に幸を恵む天地両界を生みなした。その彼はよき賢慮によって、不朽の支柱をもって両界を測り分かったのであるが、彼こそ広くたたえられた。(同選集P452、RV.Ⅰ、160、4)』 

ここで中村博士は、「この神」を太陽神だと考えているようだ。原語を見ると「不朽の支柱」は『スカンバSkambha』になっている。車軸なる、世界の柱なる神は、その時々の文脈で様々な神に比定されたのだろう。

インド思想の根幹に位置する、最も古層のリグ・ヴェーダにおいて、輪軸のコスモロジーが発見できたことは、本ブログにおける論述の妥当性を評価するうえで極めて重要な意味を持っている。 

リグ・ヴェーダは全十巻1028讃歌によって成り立ち、その文章量は膨大なものになる。私の手元には辻直四郎訳の岩波文庫版とセイクレッド・テキストの英訳ウエブ版しかないのだが、その英語版で確かめた所、「車軸が車輪を分かち支えるように、インドラが天地を分かち支えた」という、その「車軸と車輪」の原語はサンスクリット原文に確認できたので、ここに天地世界と輪軸を重ね見る思想が『実在』したことは、もはや間違いないだろう。 

yo akṣeṇeva cakriyā śacībhirviṣvak tastambhapṛthivīmuta dyām

Who to his car on both its sides securely hath fixed the earth and heaven as with an axle.

Rig Veda Index より引用

 akṣeとaxleが車軸であり、 cakriyā が車輪(多分複数)だが、英語版ではwheelという訳語は使わずcar on both its sides になっている。 

そして、車軸と車輪という言葉こそ使っていないが、神と人が分かたれ住まう『天地』とは、リグ・ヴェーダ全体に普遍するメインテーマであり、神々が『天地を分かち支える』という表現は讃歌の多くに共有されている。 

前後の文脈も踏まえたうえで、それらの根底にはおそらく全て、この車軸なる神によって天地の両輪が分かたれ支えられたという思想が、遍在していたと考えて間違いないと私は判断している。 

ヴァルナの歌、RV,Ⅶ、86,1, 辻直四郎訳より、

『この(神)の偉大によりて生類は賢明なり。彼は広大なる天地を分け隔てたり。彼は蒼穹を遥かに推しかかげ~』

この蒼穹とはあおぞらとルビが振ってあり天蓋だと考えれば、あたかも巨大な傘をその柄をもって(立てて)かかげるイメージではないだろうか。 

このように天地両界が車の両輪に譬えられ、超越者がその車軸なる柱として位置づけられた事は、その後のアタルヴァ・ヴェーダの中にも明らかに表れている。 

『とくに汎神論的な思想を表明したものとしてスカンバ(skambha)讃歌(AV, Ⅹ,7,8)は注目される。従前に世界原理として説かれた諸原理は実はこのスカンバの別名にほかならないとして、諸原理をこのなかに包括しようとしている。スカンバとは宇宙の大支柱である。

ひとつの讃歌(AV,Ⅹ,7)によると、スカンバはブラフマンと同一視されているようである。すなわち、天、空界、太陽、月、火、風、方角、大地は最高ブラフマンの身体なのである。

「過去と未来、ありとあらゆるものを支配し、天空を一人所有するところのブラフマンに敬礼する」

ここでは最高のブラフマンなるものが考えられているが、それはまたすべてを支配するのであるから、一種の人格的原理とも考えられている。』

中村元選集P476以降から引用(一部省略)。 

「至高なるブラフマン、その足元は地を、その腹は空を、その頭は天を支え~、このスカンバは広き六方の世界を生み出し、宇宙の全てに浸透する。」

「偉大なる神的顕現(スカンバ)は万有の中央にありて、~ありとあらゆる神々は、その中に依止す、あたかも枝梢が幹を取り巻きて相寄るがごとく」(アタルヴァ・ヴェーダ:辻直四郎訳)

このアタルヴァ・ヴェーダのスカンバは、明らかに先のリグ・ヴェーダ『天地讃歌』におけるスカンバをそのまま受けたものだろう。これはインド思想が多神教的な神々の世界から唯一至高者へと収斂されていくプロセスを表しており、日本語ではしばしば『万有の支柱』と訳される。 

それは最も優れた支柱であり、それは最高の支柱である。この支柱を知るとき、人はブラフマンの世界において栄光を享受する。

カタ・ウパニシャッド 第二章の17(岩本裕:原典訳ウパニシャッドより)

ここで注目すべきは、世界の中心原理である唯一なるブラフマンが、偉大なる柱であると同時に『人格的(人間的)』なものである、という点だ。 

実はこのような「天地を支える万有の支柱としての絶対者ブラフマン」あるいは「ブラフマンの身体としての天地」というイメージは、現代に至るジャイナ教の思想の中に引き継がれて保存されている。

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ジャイナ教の世界観「コスミック・マン(Loka Purusha)」より。

明らかにこれは「人(神)柱」である

そこには大宇宙の根本原理であるブラフマンを万有の支柱(車軸)スカンバに見立て、現象する大宇宙(この世界)を車輪(ブラフマ・チャクラ)に見立てる思想が存在する。

少し後になって現れるシュヴェタシュヴァタラ・ウパニシャッドの中には、より鮮明な形で車軸であるブラフマンと車輪である現象世界、すなわち真実在たるブラフマンと幻影虚妄としてのプラクリティの関係性が言及され、優れた瞑想によってリシ(修行者)は真実在であるブラフマンとひとつになれる事が説かれている。

Chapter III

4 He, the omniscient Rudra, the creator of the gods and the of their powers, the support of the universe, He who, in the beginning, gave birth to Hiranyagarbha−may He endow us with clear intellect!

彼は全知なるルドラ、神々の創造者、その力を与える者、万有の支柱。彼は始原においてヒラニヤガルバを産みなした者。願わくば彼が我らに明晰な智の力を与えんことを!

 

9 The whole universe is filled by the Purusha, to whom there is nothing superior, from whom there is nothing different, than whom there is nothing either smaller or greater; who stands alone, motionless as a tree, established in His own glory.

全宇宙はプルシャ(ブラフマン)によって満たされる。彼を超える者はなく、彼と異なるものも、彼よりも大きなものも小さなものも存在せず。彼はひとり立ち、大樹の幹の如く不動であり、自身の栄光によって確立する。

 

Chapter VI

1 Some learned men speak of the inherent nature of things and some speak of time, as the cause of the universe. They all, indeed, are deluded. It is the greatness of the self−luminous Lord that causes the Wheel of Brahman to revolve.

学びを深めたある者たちは、事象に固有の性質や時間が世界の原因だと言うかも知れない。しかしそれらはもちろん幻想に過ぎない。自ずから光輝なる偉大な主(至高者=ブラフマン)こそが、正にブラフマンの車輪(大宇宙・世界)が回転する原因に他ならない。

Svetasvatara Upanishad by Swami Nikhilananda より抜粋引用(日本語訳筆者)。

このように見てくると、ガンディ翁が若かりし頃からその手に握っていたダンダと言う聖棒は、世界の車軸であり万有の支柱である至高者(彼の場合はヴィシュヌ)を象徴し、シヴァ派の場合はそれがシヴァ・リンガムと言う造形になって現れたのだ、と理解する事が出来るだろう。

そして同時に、このような外的世界(マクロ・コスモス)に対する心象が、内的身体世界(ミクロ・コスモス)と重ねあわされていた事を忘れてはならない。

この場合、人体における背骨が車軸なるダンダであり、頭蓋骨が天の車輪を、骨盤が大地の車輪を表すことになる。

『世界は身体であり、身体は世界である』

これはあらゆるインド教に通底する世界観なので覚えておくべきだろう。

アタルヴァ・ヴェーダとシュヴェタシュヴァタラ・ウパニシャッド、そしてサーンキャ哲学の時代考証については、ブッダ在世の以前であるか以後であるか様々な見解に分かれているが、少なくともこの輪軸世界観の基本的な枠組みに関しては、すでにブッダ在世の当時には十分に普及しており、シッダールタ自身もこの様な背景心象の中に生まれ、生き、そして死んでいったのは間違いないと思われる。

「不動なる車軸(世界の支柱)をプルシャ=アートマンブラフマンと重ね合わせ、躍動する車輪を輪廻する現象世界プラクリティ=人間的(身体的)生存 =『心』と重ね合わせる基本的な思考の枠組み」

「更に、その様な車輪と車軸の基本構造が、人間の身体の内部にも存在すると考える、マクロ・コスモスとミクロコスモスが照応する世界観」

このマインド・セットが仏道修行だけではなく汎インド教的な思想と『行法』の背後に通底するひとつの重要な柱だった。これが本ブログの論考を進める上でのキー・コンセプトに他ならない。

(本記事は、脳と心とブッダの悟り: 車軸としてのブラフマン および リグ・ヴェーダに見る、輪軸世界観の起源 - 脳と心とブッダの悟り などを加筆修正したものです)

 

 

 

 

チャクラ思想の2大源流とその展開

インドにおけるチャクラ思想の真実を求めて旅を続けた私は、やがて2つの源流にたどり着いた。ひとつは紀元前1500年に北西インドに侵入した、侵略者インド・アーリア人の文化的伝統であり、もうひとつは紀元前2200年ごろその最盛期を迎えた、インダス文明の伝統だった。

アーリア人とは、紀元前2500年ごろ東ヨーロッパ、現在のウクライナ周辺に勃興した民族集団だ。大平原に遊牧を主とした生計を営んでいた彼らは、やがて紀元前2000年ごろ、木製スポーク式車輪を世界で初めて開発した。

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スポーク式車輪を創造したと言われるAndronovoのSintashta-Petrovka Proto-Indo-Iranian文化(ピンク色)

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木製スポーク式車輪を履いたラタ戦車(チャリオット)の時系列的広がり

Chariot - Wikipedia, the free encyclopediaより

木製スポーク式車輪の開発、と言われても現代人はあまりピンとこないかも知れない。

それ以前に普及していたのは、木の板を張り合わせて作った鈍重な車輪だった。これはバーベルのウエイトに当たる鉄の円盤を思い浮かべてもらえばいい。木の板を何枚も張り合わせてあの形を作り上げた様な車輪しかそれまではなかったのだ。

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現在でも南インドで祭りの山車に使われている非スポーク式張り合わせ車輪。ウドゥピ、カルナータカ州

この合板製車輪、基本的に弾性に乏しくシヨック・アブソーバーとしての働きが欠けている。また頑丈にするためにはどうしても一定以上の厚みを必要とし、必然的に直径に比べて重すぎる欠点があった。

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現在でも中・北インドで現役で使われている木製スポーク式車輪。6か所に入れられた切込みによってたわみが生じ、クッションの役割を果たす

それに対してスポーク式は、それらの欠点を解消した高機能かつ革新的なハイテクノロジーだった。そのハイテク車輪を履かせたラタ戦車を馬に引かせ、その圧倒的な機動力の優位によって、彼らは西ヨーロッパ、地中海世界中央アジアへと進出していった。

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二頭の馬に引かれた戦車に乗る古代エジプトのラムセス2世。出典元サイト

車輪システムはより洗練されているが、ラタ戦車の原像を良くとどめている。

中央アジアを東進したアーリア人は、やがて現在のイランにその一派が定着し、さらに東の果てまで進み、カイバル峠を越えてインド亜大陸に侵入した。このインドまでたどり着いた集団を、便宜的にインド・アーリア人と呼ぶ。彼らはヴェーダの祭式を重んじる、極めて宗教的な部族集団であった。

ラタ戦車の圧倒的な武威によって西ユーラシアを席巻した彼らにとって、その威力の中心であるスポーク式車輪は、偉大なる転輪武王の象徴であると同時に、神々の神威をも象徴するシンボルとなった。

この点に関してはチャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流1以下を参照して欲しい。

リグ・ヴェーダに収められた1028の賛歌の内、インドラに捧げられたものは実にその4分の1を占めている。彼は馬に牽かれたラタ戦車を駆り、先住民の肌の黒いダーサ(ダスユ)を征服し、その富をアーリア人に分け与える軍神として、また、ヴァジュラ(金剛杵)によって蛇の悪魔を殺し、閉じ込められた川の水を開放する雷神として讃えられている。

『ダーサ(黒色)の原住民を屈服せしめ、消滅せしめたる彼、勝ち誇る賭博者のごとく、勝利を博して、賭物たる部外者の豊かな財産を収得したる彼、彼は、人々よ、インドラなり。』(辻直四郎訳)

リグ・ヴェーダが成立したBC1500年前後、それはちょうどアーリア人インダス川の流域に侵入した時期と重なっている。軍神としてのインドラは、侵略するアーリア人の自己賞賛を投影したものと言えるだろう。また、蛇殺しと閉ざされた水の開放は、大規模な農耕を知らなかった遊牧民アーリア人が、灌漑農業を行う先住民の町を破壊し、水源である豊かな森を切り開いて定住していったプロセスとの関連が考えられる。

このアーリア人の侵略の原動力になったのが、高性能のラタ戦車だったのだ。実はインダス文明の末裔であり、農耕民である先住民は、ある意味、遊牧のアーリア人より遥かに高い文化レベルを誇っていた。けれどこと武力においては彼我の関係が逆転する。アーリア人は戦争の達人だったのだ。

高い機動力を持つラタ戦車とそこから速射される弓矢、という見たこともない斬新な戦術に、先住民はほとんど抵抗のすべもなくアーリア人に征服されてしまう。やがて彼らは、被支配者としてヴァルナのシステムの最底辺に、隷属階級シュードラとして位置づけられていった。

以上、チャクラの国のエクササイズ:進撃する軍神インドラとラタ戦車より

ナットドワラやプーリーではクリシュナとして祀られ、世界の維持を司るというヴィシュヌ神。それは色が黒く、四本の手にそれぞれ棍棒(ガダー、もしくはダンダ)とほら貝(シャンク)と車輪(スダルシャン・チャクラ)と蓮華(パドマ)を持ち、ガルーダという神的鷹に乗り、ヴァイクンタという天上の国にラクシュミ女神を伴侶として住まうという。そして、悪が栄え世の秩序が乱れた時にアヴァターラ(化身)の姿をとって降臨するや、スダルシャン・チャクラを投じて悪を滅ぼすのだ。

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左手にチャクラ(車輪)を持ちヨーガ・ナラヤナの瞑想ポーズをとるヴィシュヌ神

以上、インド思想の核心『チャクラ意識』とは何か?より

ここで重要なのは、ラタ戦車に使われていた車輪のスポーク本数が、(おそらくは)6本であった事だろう。6本スポークの車輪は、正にアーリア人の神威を象徴するシンボルだったのだ。

それはチャクラ思想のもうひとつの源流、紀元前2500年頃から栄えはじめ、紀元前1700頃に忽然と滅びた、インダス文明の聖なるシンボルと”偶然にも”符合するものだった。

インド・アーリア人亜大陸に侵入する遥か以前から繁栄していたインダス文明は、メソポタミアなど地中海世界周辺の文明圏とも交易を通じて深く結びついていた。しかし、遺跡からは巨大な軍事力を想起させるようなものが発見されておらず、その文化の実態については未だ謎に包まれている。

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発掘された瞑想するヨーギの印章。シヴァ神パシュパティナートの原像か

しかし、インダス・シールと呼ばれる石製の印章に刻まれた様々なデザインによって、彼らが瞑想実践を中心に据えた極めて宗教的な人々であった事が推定されている。その彼らの神性を表すシンボルが、これは『神』の悪戯としか思えないのだが、6本スポーク車輪を思わせる、図形だったのだ。これは分かりやすく言うと、6Pチーズのデザインを単純に線描した形になる。

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印章に刻まれたチャクラ・シンボル。NHKスペシャルインダス文明」より

このチャクラ文字は、近年発掘が進むドーラヴィーラの遺跡においても、神殿と思しき施設のゲートに掲げられた世界最古とも言われる看板に、複数個刻まれていた事によって一躍注目を浴びた。

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ドーラヴィーラのサインボード。Dholavira - Wikipedia, the free encyclopediaより

このチャクラ・シンボルはインダス文明崩壊後も瞑想ヨーガと共にインドの先住民に連綿と継承され、紀元前1500年のアーリア人侵入に伴ってもたらされたラタ戦車の車輪と重なり合って、ここにインド神聖チャクラ思想の基盤が確立した。そのように私は考えている。

この間の詳細についてはチャクラの国のエクササイズ:インダスの印章と「チャクラ文字」を参照。

各地のインダス文明遺跡からは凍石で作られた印章が多数発掘された。これは商人が積荷などの封印として蜜蝋や粘土に押していたと考えられている。押印は呪術的な意味を持ち、その印面には瞑想するヨーギ(行者)の姿やいくつかの動物が彫られている。

それらと並んで様々な象形文字も刻まれていたが、その中に、6本スポークの車輪と見まがうデザインがあったのだ。このシンボルは、近年発掘が進んでいるグジャラート州のドラヴィーラ遺跡においても大量に発見され、他のデザインとは本質的に異なった聖なる印である可能性が高いという。

その一見車輪に見えるデザインは、しかし車輪であるはずはなかった。何故なら、それが作られた紀元前2000年代には、まだこの地域にスポーク式車輪は現れていないからだ。発見された遺物によって、彼らが板を張り合わせた円盤状の車輪を使っていた事が分かっている。しかもまだ馬は普及しておらず、車を引いたのは牛であり、その用途も荷車が中心だった。

博物館で立ちすくみながら、私はしばらく、その形を見つめ続けた。それは何故か、私の心の琴線に触れる物だったのだ。

~中略~

そう、これは瞑想の深みにおいてヨーギに訪れる、チャクラ・ヴィジョンの刻印に違いない。私はそう直感した。考古学者によると、インダスの都市遺跡には特権階級による専制支配の痕跡が見当たらず、武器も貧弱なものしか発見されていないという。強大な権力を持つ王のような求心力が不在な中、どのようにしてこれだけの文明が維持されたのかが大きな謎だったのだ。

恐らく、当時インダス文明において、宗教的行者(ヨーギ)の存在が特別な力を持っていたのではないだろうか。そして日本の邪馬台国のように、霊的な素質を持った少数の神官の霊力によって社会が統治されていたとしたら・・・

その後の印章文字の研究によって、インダス文明を担ったのはドラヴィダ人だというのが最も有力な仮説となっている。恐らく、彼らは優れて宗教的な資質に恵まれていたのだろう。それは現在のタミル世界にも色濃く残っている。そしてインダス文明が気候変動などで衰退に向かったまさにその時に、武力の権化であるアーリア人が、ラタ戦車の車輪を駆って怒涛のように攻め込んで来たのだ。

その時、その地軸を揺るがすような轟音をたてて疾駆する戦車を目の当たりにした時、先住民は何を思っただろうか。その車輪が、まさに神的ヴィジョンと同じ形をしていたとしたら・・・

ひょっとして彼らは、ラタ戦車に乗るアーリア人を『神』だと思ったのではないか。奔馬に引かれ、轟音を上げて大地を疾駆する高速機動戦車とそのスポーク式車輪。初めてそれを目の当たりにする彼らにとって、その動きは、その働きは、正に神速そのものと映ったのではないのか。

それはちょうど、馬に騎乗したスペイン人侵略者を見て、神だと錯覚したインカの人々と、同じではなかったろうか。

チャクラの国のエクササイズ:インダスの印章と「チャクラ文字」より

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現在でもインド全土で愛用されている最もシンプルな六葉の聖吉祥文様。その形はインダスのチャクラ・シンボルと重なり合う

私はインド各地を取材して歩いて多くの寺院や遺跡、町や村々を訪ね歩いて気付いたのだが、インド亜大陸において遍く共有されている最も基本的な吉祥文様に、上の写真に見られるようなシンプルな六葉の円輪デザインがある。

これこそがインド・アーリア人が携えてきた武威の象徴としての車輪と、インダス文明期に由来する先住民のチャクラ文字が融合した所に生まれた『聖チャクラ』の原像だと私は考えている。

その後インド世界の宗教思想はこの聖チャクラの原像を起点にして、正に万華鏡的な展開を見せていく。そこで重要になるのが、車軸と車輪だ。

ラタ戦車の車輪を構成するパーツは大きく二つに分ける事ができる。車台に固定された不動の車軸と、その車軸にはまる事によってスムースな回転を得て躍動する車輪だ。

実はこの車軸と車輪というセットこそが、常に合い携えてインド思想の基盤をなしてきた。これがこれまでの研究の結果、私が辿り着いた中心仮説だ。

そして勿論、正にこの輪軸の思想こそが、ブッダの悟りとそれをもたらした瞑想法の『発見プロセス』とも密接に関わっていた。これが本ブログの論述を支える、最も重要な仮説のひとつとなる。

この様なチャクラ思想の原像は、ゴータマ・シッダールタ在世当時も、様々なヴェーダを始め日常生活の隅々にまで、知識階級や修行者たちの間では背景心象としてすでに浸透していた。シッダールタは正に聖チャクラ思想のただ中に生まれ、育ち、修行し、悟りを開いたのだ。

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南インドのアマラヴァティの仏教遺跡で発掘された蓮華の車輪

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オリッサ州のコナーラク太陽寺院のシンボリックな巨大車輪

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ヨーガ・チャクラ図。六芒星は六葉チャクラの亜形

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民家の玄関先に描かれた南インドの吉祥文様コーラム。その中心には六葉チャクラの基本デザインがある

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ミルナードゥ州、パッラヴァ朝期の天井蓮華輪

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チベット仏教に伝わる『バーヴァ・チャクラ(輪廻する生の車輪)』。スポークの数は六本

上の画像に関しての詳細は、

チャクラの国のエクササイズ:クリシュナの台頭とインドラの失権

チャクラの国のエクササイズ:聖別する蓮華輪とヨーガ・チャクラ 

などを参照。

インド宗教思想において、何故ここまで普遍的に車輪のデザインが重視され適用されているのか。そこにこそ、何故、ブッダの布教のプロセスが「法の車輪を転ずる」と表現されたのか? と言う疑問に対する答えが隠されている。

この車輪(チャクラ)のシンボリズムの背後にある心象風景を『原点』にまで遡って理解して初めて、沙門ゴータマ・シッダールタの思想的な立脚点が見えてくる事だろう。

本来のインド思想自体が煩瑣を極めたもので、それに関して新たな仮説を分かり易く簡潔に論述すると言うのは、相当以上に荷が重い仕事なのだが、次回は、このインド輪軸思想の核心と、沙門シッダールタとの結びつきについて、詳述していきたい。 

(この投稿はブロガー版「脳と心とブッダの悟り」記事を加筆修正したものです)